なされたようで――あとで思えばそれは血でした。先生はその時に夥《おびただ》しい血を吐いておしまいなすったのでしたが、わたしはそんなことは知りませんから、それと一緒に先生の足許がよろよろよろ、右へ左へよろけるのを、踏み締め踏み締めしておいでなさる様子が、おかしいと思いました。まさかあのお邸で飲んだ酒が、ここまで来て急に酔いが出たわけでもあるまいし、そうかといって謡の興に乗って、往来中《おうらいなか》で舞をなさるような先生ではなし、これはと思っていますところへ、ようござんすか、いま申しました大島流の槍の一筋――先生の背後《うしろ》から楯《たて》も透《とお》れと――あたしはもう、先生が殺されてしまったと思いました、さすが名人でも、こういうところを突かれたのでは駄目だと思って、身ぶるいをして眼をつぶ[#「つぶ」に傍点]ってしまいました」
「…………」
「毒が廻ったんだなと、わたしは直ぐその時、そう思ってしまいました。いかに強い先生だって、毒を盛られて、中から五臓六腑《ごぞうろっぷ》を絞《しぼ》られたんではたまりません、ああお気の毒な、あれほどの先生が、こんなことで暗々《やみやみ》と……わたしはお気の毒なのと口惜しいのと怖ろしいのとで、目をつぶってしまいました」
「…………」
「それでも少したって目をあけて見ると、先生は殺されやしないんです、突かれてもいないのですね、一方は槍をこう構えているのに先生は向うを向いて、やはりよろよろとした足許で歩いているのです。もしわたしが男なら、女でも薙刀《なぎなた》の一手も心得ていようものなら、あとから助太刀《すけだち》と出るところなんですが、悲しいことにわたしは花鋏《はなばさみ》よりほかに刃物を扱ったことがない女でございますから、怖《こわ》い思いをしながら、むざむざとそれを見殺し……ただ見ているよりほかは仕方がなかったのですねえ」
「…………」
「そうしますと、二度目に突っかけて行った大島流の槍、今度こそはと思うと、それがひょいと外《はず》されちまったんですね、よろよろして足の定まらない島田先生のことですから、直ぐにも突けそうなものですが、それが突けないのですね、突き出すと外されて、突いた人が前へ流れるところを、島田先生がその槍の千段巻《せんだんまき》のところ……あの辺を押えてしまったのですから、突いた人が動きが取れなくなってしまったのですね。ああよかったとわたしは思いました、先生のことだから、直ぐにその槍を奪い取って、反対に突き殺しておしまいなさるか、または刀を抜いて斬っておしまいなさるだろうと思っていますと、先生は槍を押えたままで、自分の腰のものへは手もかけず、振返って後ろに向いた面の色。その時に月がどの辺にあったか、よく気がつきませんでしたが、わたしの目には今でもありありとそのお面付《かおつき》が残っているのでございます、眼からも鼻からも口からも、血が滝のように――血の管《くだ》が破裂して、それからみんな吹き出したものでしょうよ、凄いともなんとも……」
「…………」
 お絹はその時の光景が思い出されて、そぞろに怖ろしくなったようでありましたが、
「そうすると、突っかけた槍の人は濠の中へ転げ落ちてしまいました、水音がしないのが変だと思ったら、なんでも堤《どて》を伝って逃げてしまったのですね。槍は島田先生の手に残っています。先生、お怪我はございませんかと言って駈け出せばよかったのですけれど、あの時に、わたしは竦《すく》んでしまって、どうしても飛び出すことができませんでしたよ。そうすると島田先生は、その槍をこう杖について、よろよろ、よろよろと濠端道をよろめき歩いて、駕籠屋駕籠屋と通りかかる辻駕籠を呼び留めました」
「…………」
「そこで槍を投げ捨てて、御徒町へ行けと駕籠屋へ言いつけたままで、垂《たれ》を上げて駕籠の中へ身を隠してしまわれました。そうして駕籠が飛んで行くのを見送った時に、ようやっと[#「ようやっと」に傍点]わたしは歩けるようになりました。その翌日、島田先生が急病で亡くなられたという噂を聞きましたから、それとなくその御最期の模様を人からたずねてみますと、あれからお家へお帰りになり、床の間の前に坐って香を焚《た》いて、座禅とやらを組んだままで亡くなっておられたということでありました」



底本:「大菩薩峠2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
   1996(平成8)年2月15日第4刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年6月1日公開
2004年3月6日修正
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