ばよかったねえ」
「そうだな、宇治から大湊までは一息だが、ここからでは大変だ、逆戻りをして、また宇治山田の町を突っ切って、それからでねえと大湊へは出られねえ」
「困りましたねえ、急ぎの用なんでしょうか。あの女の方はたいへん心配そうにして、お金までつけて頼むんだから早い方がいいだろうに、さぞ頼《たの》み甲斐《がい》のない女だと思っているでしょう」
「どうも仕方がねえ、災難だから。こうなってみると、この手紙を届けるのも今日明日というわけにはいかねえし、その預かったお金というやつの行方もわからねえ、ちょうど封じ目も切れていらあ、他人様《ひとさま》の手紙の中身を見ちゃあ悪いけれど、こういう場合だから、御免を蒙《こうむ》って用向をひとつ胸に納めておこうじゃねえか」
「そうして下さい、その用向によっては、せっかくの頼みだから、わたしの身は少しくらいあぶなくっても、なんとか知らせて上げなくっちゃあ」
「それでは、中身をひとつ読んでみてやれ」
 米友は捲きかけた手紙をクルクルと拡げて、仔細らしい面で文面を見つめました。
 一通り眼を通してしまうと米友の面色《かおいろ》が変ります。驚いた時にいつもするように、猿のような眼がクルクルとまわります。
「玉ちゃん、こりゃ大変だぜ、大変な手紙だぜ」
「何だえ、嚇《おどか》しちゃいけないよ、落着いて読んでお聞かせよ」
「お前の方が落着かねえんだ、読むと文句がうるせえ[#「うるせえ」に傍点]から話にして聞かせるがね、この手紙を書いた女は、もう死んでるよ」
「おや、あの女の方《かた》が?」
「どんな女の方だか俺らは知らねえけんど、この手紙は、つまり遺書《かきおき》なんだね」
「遺書?」
「そうだよ、とてもわたしはこの世に望みは無いから死んでしまいます、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅だとよ」
「ああ、それではわたしの歌を聞いて死ぬ気になったのか知ら……それから、どう書いてあるのですよ」
「わたしは死んでしまいますけれど、あなた様はよく御養生をなすって下さいましというわけだ」
「そのあなた様というのは誰のこと?」
「それがそれ、宛名の、大湊、与兵衛様方小島という人なのよ、その小島というのは、これによって見ると男だね」
「へえ、そういうこととは知らなかった」
「それでよ、就きましてはここに二十両のお金がございます、これをお届け申しますから、これでどうかできるだけの養生をなすって、故郷へお帰り下さるように」
「そうすると、向うの人も病気で悩んでいるのですね」
「そうだ、これによって見ると、たしかに病気だね、何病とも別に書いてねえが、女が勤め奉公に出て、その血の出るような金を貢《みつ》いで男の病気を癒《なお》そうというんだね」
「知らなかった知らなかった、それほどのお金だったら、あの晩に届けて上げればよかったものを。二十両のお金、家へ置きっぱなしにして来たから、もう取返すことはできない」
 お玉は躍起《やっき》となって口惜《くや》しがります。
「それでだね、お前、終《しめ》えの方へもってきてよ、それ、お前がおはこ[#「おはこ」に傍点]の歌を書いてあらあ、花は散れども春は咲くよ、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅、今あの歌が聞えます、あの歌は、はじめに行基菩薩《ぎょうきぼさつ》というお方がおつくりなすった歌だから、あれを冥土《めいど》の土産《みやげ》に聞いて行けば心残りはないから、わたしの命は今晩限り、明日は、もうこの世の人でないと書いてあるよ」
「それではやっぱり、わたしの歌を聞いて死ぬ気になったのだよ、わたしがお手伝いをして殺したようなものだ、申しわけがありません、どうも済みません」
「そんなことはねえ、歌をうたう方と死にたくなる方とは別々だからあやまらなくてもいい。それで終いの方へ行って、わたしは快くあの世へ行きます。あの世へ行けば知った人はいくらでもいますけれど、この世に残るあなた様にはお頼りなさる人がひとりもないと思うと、冥路《よみじ》のさわりのような心地も致しますけれど、何事もこれまでの定まる縁……こんなことも書いてある、筆もなかなか見事だし、文言《もんごん》もうめえものだ」
「そう聞いては、わたしはじっとしていられない、わたしの身はどうなってもかまわない、友さん、わたしは大湊まで行くわ、行ってその小島さんとやらにお詫びをするわ、こうしちゃいられません」
「そうだなあ」

         十二

 船大工《ふなだいく》の与兵衛は仕事場の中で煙草を喫《の》んでいました。炉《ろ》の焚火《たきび》だけが明りで、広い仕事場がガランとして真暗《まっくら》でありました。
「何とかしなくっちゃあ」
 ひとりで呟《つぶや》いている。
 伊勢の海は昼でさえも静かなものであります。夜になったのでは雌波《めなみ》の音《おと》一つ立たないで、阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》で鳴く千鳥が遠音《とおね》に聞こえるくらいのものでありました。
「困ったことだわい」
 印伝革《いんでんがわ》のかます[#「かます」に傍点]から煙草を詰め替える与兵衛は船大工の親方、年はとっているが眼は光る。
「今晩は」
 裏口でおとなう声。
「へーい」
 内で与兵衛が返事。
「あの、大湊の与兵衛さんとおっしゃるのはこちら様で……」
「与兵衛はうちだが、お前さんは」
「古市から参りましたが」
「古市から?」
 与兵衛は立たないで耳を傾けて、
「古市から? 古市のどちら様からおいでなすった」
「あの、備前屋から」
「備前屋さんから?」
 与兵衛はこの時ようやく立って、
「どうも女衆の声のようだが」
 戸をあけると、手拭で面を包んだ女、逃げ込むようにして家の中へ入って、
「こちら様に小島さんとおっしゃるお方がおいででございましょうか」
「小島……してお前さんは何しにおいでなすった」
「その小島さんというお方がいらっしゃるならば、その方へお手紙を内緒《ないしょ》で頼まれて参りました」
「ああ、そうでござんしたか」
「これがそのお手紙でございますが」
「これが……」
 与兵衛はお玉の手から手紙を受取って、
「それは御苦労様でございます、どうか少しお待ちなすって。その火の傍で少しの間、待っていておくんなさいまし」
 与兵衛はその手紙を持って、家の内と外とを気遣《きづか》うように見廻して、戸を締め切ってしまいました。
 被《かぶ》っていた手拭を取って火の傍へ寄った女は、間《あい》の山《やま》のお玉であります。
 お玉は仕事場の中へ入って炉の傍へ寄って、いま出て行った老爺《おやじ》の帰るのを一人で待たされていました。焚火の光で、丸太を組み渡した高い天井が白い蛇の這《は》っているように見えました。光の届かない家の四隅は真暗で、外で千鳥の啼《な》く声が淋しい。
「いやどうも、お待遠さま」
 ようやくに裏口の戸をあけて与兵衛の帰って来たのを見て、お玉はホッと息をつきました。
「おや、お前さんは間の山のお玉さんじゃねえか」
 与兵衛は今になって、それがお玉であることに気がついたのです。
「ええ、そうでございます」
 お玉は恥かしそう。
「こりゃ、お見外《みそ》れ申したというものだ」
 与兵衛は、しげしげとお玉を見て、
「お前はお尋ね者になっているはずだな」
「ええ」
「何か悪いことをしたのかい」
「どう致しまして、間違いでございます」
「そうして、ここへどうして来なすった」
「隠れて参りました」
「どこに隠れていたんだい」
「山の方へ隠れていましたけれど、あのお手紙をお届けしないうちは気が済みませんから、一生懸命でここまで戻って参りました」
「そうかい、それは御苦労だったな。しかしこのごろはお前と米友を探すんで網の目のように筋《すじ》が張ってあるはずだ、それを突き抜けて、よくこれまでやって来られたなあ」
「はい、こちら様へ参る材木の舟の中へ隠れて参りました」
「舟の中へ? それじゃなにかえ、宮川を下る筏舟《いかだぶね》の中へ隠れてこの船着《ふなつき》へ来て、夜になって忍んでここへやって来たというわけだね」
「左様でございます、もうお手紙をお届け申しさえすれば、捕まってもかまいませんつもりで」
「よく届けておくんなすった。それで、米友も一緒に来てくれたかい」
「ええ、そこまで一緒に来てくれましたけれど、ムクを尋ねると言って古市へ忍んで行きました」
「米友が古市へ行った? そいつは危ねえ」
「それから親方さん、わたしあの手紙に附いているお金をお預かり申したんですけれど、それを失《な》くしてしまいましたから、ぜひそのお詫《わ》びをしなければなりませんが」
「うむ、そのことは大概わかってる」
「ほんとうに済みません、そんな場合でわたしの身が危ないのですから……どうか御免なすって下さい」
「どうも仕方がねえ」
「それでは親方さん、これで御免を蒙《こうむ》りまする」
「まあ待ちねえ、これからお前を一足でも外へ出すのは、雛子《ひよっこ》を狼の中へ入れてやるようなものだ、待っておいで」
「それでも」
「何とかして上げる。今もそれお触れが出たところで、お前と米友は盗賊の罪に落ちている」
「もう捕まってもかまいません」
「ばかなことを言いなさるな。それから、まだ用があるのだ、実はその、お前が持って来てくれた手紙を受取った御当人が、お前に会いてえとこういうのだ」
「そうでござんすか、それではお眼にかかって、わたしからよくわけをお話し申してお詫びを致しましょう」
「向うでも聞きてえことがおありなさるようだから会って行って上げてくれ、今おれが案内してやる」
 与兵衛は、また裏口から立って、仕事場の外へとお玉を導いて出ました。
 仕事場の外は暗いが、右手の方の海は明るく見えます。
 大湊の海は阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》には遠く、二見ヶ浦には近い。静かで蒼《あお》い阿漕ヶ浦と、明るくて光る二見ヶ浦が、大湊の島で二つに分れているようになっていました。
「お玉、お前まあ、よく会って話をしてみるがいい」
 海の風が神前浜《こうさきはま》の方から吹いて来て与兵衛の声を消す。お玉はよく聞えなかったから、返事をしないで黙って歩くこと暫し、
「さあ、ここへ入るのだ」
 入江に近い大きな材木小屋。
 お玉を入れると直ちに与兵衛は戸を立て切ってしまいました。
「手を引いてやる、暗いから用心をして来さっしゃい」
 船をこわした古い材木と、削《けず》りぱなしの材木との累々《るいるい》たる間を、与兵衛に手を引っぱられて行くお玉は気味が悪くてなりませんでした。もし相手が与兵衛でなかったならば、お玉は一歩も中へ進み得なかったであろうと思われます。
「お玉さん、退引《のっぴき》ならねえ行きがかりで、俺もその人を匿《かくま》っているんだ、誰にも知られてはならないが、お前は別だから連れて来たんだ」
 与兵衛がこれほどに匿《かくま》い立《だ》てをするその人は、いかなる人で、何の義理があるか、それらもまたお玉にはわかりませんでした。
「あの、なんでございますか、男のお方でございますか、女のお方でございますか」
「男の方だよ」
 暗い中を暫らく行くと、石段があって下へ下へと降りて行くようになっていて、下からは塩気《しおけ》を帯びた風が吹き上げて来るようでありました。
 大湊は神代からの因縁《いんねん》のある古い古い船着《ふなつき》であります。この小屋なども百年を数える古い建前《たてまえ》であって、磯の香りや木の臭気でむしむしと鼻を撲《う》つのでありました。
 磯に沿うた崖《がけ》と、小屋の支えになった乱杭《らんぐい》の間の細道を歩かせられて、どうやら材木小屋の下を潜《くぐ》って深い穴蔵《あなぐら》の中へ引張り込まれて行くように思われてきました。
 お玉はここまで引張られて来ると、何とも言えないいやな気になってしまい、
「ああ怖《こわ》い」
 意地にも我慢にも、引かれて行く与兵衛の手を振り切って逃げ出したくなりました。
「どうした」
 お玉は慄《ふる》えながら、
「ずいぶん怖いところですねえ」
「こんなところでなければ人は隠せ
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