大菩薩峠
間の山の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)内宮《ないくう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)古市|寂照寺《じゃくしょうじ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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一
内宮《ないくう》と外宮《げくう》の間にあるから間《あい》の山《やま》というのであって、その山を切り拓《ひら》いて道を作ったのは天正年間のことだそうであります。なお委《くわ》しくいえば、伊勢音頭《いせおんど》で名高い古市《ふるいち》の尾上坂《おべざか》と宇治の浦田坂の間、俗に牛谷というところあたりが、いわゆる間の山なので、そこには見世物や芸人や乞食がたくさん群がって、参宮の客の財布《さいふ》をはたかせようと構えております。
伊勢の大神宮様は日本一の神様。畏《かしこ》くも日本一の神様の宮居《みやい》をその土地に持った伊勢人は、日本中の人間を膝下《ひざもと》に引きつける特権を与えられたと同じことで、その余徳のうるおいは蓋《けだ》し莫大《ばくだい》なもので、伊勢は津で持つというけれども、神宮で持つという方が、名聞《みょうもん》にも事実にも叶《かな》うものでありましょう。
伊勢の人は斯様《かよう》な光栄ある土地に住んでおりながら、どうしたものか「伊勢乞食」というロクでもない渾名《あだな》をつけられていることは甚だ惜しいことであります。
「伊勢乞食」という渾名がどこから出たか、それにはいろいろの説があります。第一、参宮の道者《どうじゃ》をあてこんで、街道の到るところに乞食が多いからだという説もあります。また、伊勢人は一体に物に倹《つま》しく、貨殖の道が上手《じょうず》なところから、嫉《ねた》み半分にこんな悪名をかぶらせたのだという説もあります。また、文化のころ世を去った古市|寂照寺《じゃくしょうじ》の住職で乞食月僊《こじきげっせん》という奇僧があって、金さえもらえば芸妓の腰巻にまで絵を描いたというその月僊和尚の、世間から受けた悪名をそのまま伊勢人全体の上へ持って行ったのだという説もあります。
そんなことはどうでもよろしいが、伊勢の国に乞食の多いことは争われないので、そうしていま申す間《あい》の山《やま》あたりには、それが最も多いのであります。
源氏車や菊寿《きくじゅ》の提灯《ちょうちん》に火が入って、水色縮緬《みずいろちりめん》に緋羅紗《ひらしゃ》の帯が、いくつも朧《おぼろ》の雪洞《ぼんぼり》にうつって、歌吹《かすい》の海に臙脂《べに》が流れて、お紺《こん》が泣けば貢《みつぐ》も泣く頃には、右の間の山から、中の地蔵、寒風《さむかぜ》の松並木、長峰の里あたりに巣をくった名物の乞食どもが、菰《こも》を捲いて、上り高のさし[#「さし」に傍点]を数えて、ぞろぞろと家路をさして引上げて来るのであります。秋に入ったとはいえ、陽気を受けたこの土地は、なかなか夜風の涼しさが肌に心地よいくらいで、昼は千早振《ちはやぶる》神路山《かみじやま》の麓、かたじけなさに涙をこぼした旅人が、夜は大楼の音頭《おんど》の色香《いろか》の艶《えん》なるに迷うて、町の巷《ちまた》を浮かれ歩いていますから、夜の賑《にぎわ》いも、やっぱり昼と変らないくらいであります。
それも寒風の松並木のあたりへ来ると、グッと静かになって、昼の人出はどこへやら、常明寺《じょうみょうじ》から響く鐘の音が、ここばかりは陰《いん》に籠《こも》るかと聞きなされて、古市の町の明るい灯《ひ》を見ながら、この鐘の響を聞くと、よけい、寂しさが身に沁《し》みるように思われます。
「夕べ、あしたの鐘の声……なんだかお玉さんのようだねえ」
並木の蔭に立ち止まって、後ろを振返ったのは、片手に三味線を包んだ袋を抱えた、まだ年の若い女の子であります。
「どうしたのでしょう、呼んでみようかしら、お玉さあ――ん」
お玉さあ――んという声が並木の梢《こずえ》を伝って、田圃《たんぼ》の方へ消えて行くと、また常明寺の鐘が鳴る。
「ほんとに、どうしたのでしょう、わたし淋しくなる、もう一度、呼んでみましょう」
二
古市を知るものは伊勢音頭を知る。間《あい》の山《やま》を知る者はお杉お玉を知らねばならぬ。
「お玉さあーん」
寒風《さむかぜ》の松並木のあたりで、連れの名を呼んでみた女の子は、申すまでもなくお杉でありました。
「あいよ」
女にしてはキッパリした声で、向うの闇の間から返事をして、駈足の気味でこちらへ来るのは、やっぱり同じ年頃の娘姿であって、小腋《こわき》には同じように三味線の袋に入れたのを抱え、身なりもお対《つい》の黄八丈《きはちじょう》の大振袖《おおふりそで》で、異《ちが》うのは頭に一文字の菅笠《すげがさ》をいただいていることでありました。
「何をしていたの」
「草履《ぞうり》が切れそうになったから」
お玉はお杉の立つところへ追いついてから、少し息を切って、それから二人は肩を並べながら、松並木を東へと歩んで行くのであります。
「今日は少し遅いよ、父さんが怒るだろう、かまやしないけれど」
お杉はこう言って空を仰ぐと、その頭の上を驚かすように、烏《からす》の群が唖々《ああ》と過ぎて行く。
「まだ、烏が飛んでいるよ、暢気《のんき》な烏だねえ」
お杉は口が軽い、歩きながらも何か言ってみねば納まらない性質《たち》であった。
「あの烏はどこへ行くのでしょうね」
お玉は黙って、烏の過ぎ行く方をながめていたが、
「朝熊山《あさまやま》の方に巣があるのでしょうよ」
「鳥は古巣へ帰れども……お玉さん、お誂《あつら》え向きだね。あれ、まだ常明寺の鐘が鳴っているよ、夕べあしたの鐘の声……ね、ほんとにお玉さんのお誂えの通りだよ」
「そうですねえ」
お玉は、にこやかに笑った。
「けれども陰気だねえ。わたしはあんな陰気な歌よりは、投げさんせ、抛《ほう》らさんせで、陽気にやる方が好きだけれど」
お杉はお玉の面色《かおいろ》をうかがうようにしたが、お玉は真直ぐに向いたきりで何とも言わなかったから、お杉はまた、
「それでも、お玉さんがあの歌をうたうと、お客様がみんな感心してしまうのだからね。わたしだってなんだか悲しくなって、気を引かれてしまいますわ」
「今は流行《はや》らないんだけれど、あれが本歌だと、お母さんが、そ言って教えたもんだから」
お玉は申しわけのように、これだけを言った。それから二人の間には、話の蔓《つる》がしばらく切れて黙って歩いて行って、
「あれ、ここは谷村道《たにむらみち》だよ、それではお玉さん、ここでさよなら」
「あ、そうでしたねえ、さよなら」
お杉とお玉とはここで別れる。お玉に別れたお杉は、スタスタと畷道《なわてみち》を谷村の方へ急いで参ります。
お玉は少しのあいだ立ち止って、お杉の行く後ろ影を見送っていましたが、
「わたしも急ぎましょう、今日は帰ってから古市《ふるいち》へ呼ばれるお約束があった」
前より少し急ぎ足になって、例の黄八丈の大振袖の前を胸に合せて、袋に入れた三味線を乳呑児《ちのみご》のように抱き、一文字の菅笠を俯向《うつむ》きかげんにして、わが家の拝田《はいだ》村の方へと急ぐのであります。
三
それから、いくらもたたない後、お玉の姿を古市の町の通りで見かけることができました。
姿は前と同じですけれど、今度は笠をかぶらず、笠の代りに頭から手拭をかけて後ろへ流し、小腋《こわき》にはやはり袋に入れた三味線をかかえていましたが、
「ムクよ、もうここでよいからお帰りよ」
やさしい言葉をかけられたのは、拝田村の住居《すまい》から附いて来た逞《たくま》しい一頭のムク犬であります。
ムクは、お玉に頭を撫でられながら尾を振ってその面《かお》を見上げている、お帰りと言われても帰ろうともしませんから、
「今夜は、もう家へ帰ってお休み」
お玉は、ここから犬だけを帰して、自分ひとり、めざす方《かた》へ行こうとするのでありました。
いつも柔順《すなお》に言うことを聞くはずのムクが、帰れと言われても今宵はそれを聞き分けずに、お玉が歩きだすとムクはやっぱり後をついて来るのでありました。
「ムクや、お帰りというのに」
少し言葉を強めて叱るようにして追ってみたが、犬はどうしても帰ろうとしませんので、お玉は石を拾って打つ真似《まね》をすると、ムクは身を躍《おど》らして後ろへは逃げず、行手の方へ走る。
「困るねえ」
お玉は仕方なく、追わんとした犬に導かれて、古市の町の人込《ひとごみ》の中を、面を人に見られないようにして行くと、
「あれは間の山のお玉ではないか」
町の人は早くも、お玉の姿を見つけ出して、
「お玉に違いない、お玉が、また逗留《とうりゅう》のお客様に呼ばれて間の山節を聞かせに行くのだ」
土地の人は、よく知っていて見逃さない。お玉が通ることが、特に町の人の眼を惹《ひ》くのはほかに理由もあるのであります。
「あれ、案の定《じょう》、犬がいるわ、ムク犬が跟《つ》いて行くわ」
お玉を併《あわ》せてムク犬をも見逃さないのであります。
古市の町には、茶屋があり遊女屋があり見世物もあり芝居もあるのに、そのなかで、通りかかるお玉の姿が人の口の端《は》にのぼるほど、それほどお玉は土地の人にも旅の人にも覚えられているのでありました。
そうして、お玉が行けば、間の山節を唄いに行くものと思われ、お玉が行くと言えば、ムク犬が跟いて行くもののように、土地の人には覚えられております。
「お玉可愛や、ムク犬憎や」
誰やらが言い出したのを、子供が覚えて、
「お玉可愛や、ムク犬憎や」
と言って、ムク犬を見かけると、最初は棒を出したり石を投げかけたりしたものでしたが、
「そんな悪戯《いたずら》をするものではありませんよ、怒ると食いつきますよ」
と言って、お玉がいつもムク犬の前に立ち塞《ふさ》がるものだから、子供はベソをかいて引上げる。
そうかと言って、ムク犬がひとりでいる時には、子供はかえってそれに近寄ることを致しません。
ムク犬はこの界隈《かいわい》のあらゆる犬より強いのです。ムク犬は容易に怒らず、容易に吠えないけれど、時あって怒って吠える時には、六尺の男が戦慄《せんりつ》し、街道を通る牛馬でさえ、立ちすくんでしまうことがあるくらいですから、子供らの歯には合いません、ムク犬もまた子供を嚇《おどか》すようなことは嘗《かつ》てしたことがないのです。
お玉はよく間の山節をうたい、ムク犬はよくお玉を守る。
この二つの主従は、いまや古市の大楼、備前屋の前へ来て立ちどまりました。
四
古市の大楼には柏屋《かしわや》、油屋、備前屋、杉本屋などいうのがあります。これらの四軒には、いずれも名物の伊勢音頭《いせおんど》というものがあります。
源氏車《げんじぐるま》に散らし桜を染め抜いた備前屋の暖簾《のれん》の前に、お玉とムク犬とが尋ねて来た前から、この家では伊勢音頭が始まっておりました。
今宵《こよい》、その折の音頭のお客というのは、五人連れの若い侍たちでありました。
「これは勤番《きんばん》のお侍でもなく、御三家あたりの御家中でもなく……左様、やはり、お江戸の旗本衆のお若いところ」
備前屋の主人は、この五人連れの若い侍たちを見て、こんなふうに目利《めきき》をしてしまいました。
その頃、どこの色里へ行っても、やはり江戸の者がいちばん通りが良かったそうであります。諸大名の家中《かちゅう》にも、上品に遊ぶ者や活溌に遊ぶものもずいぶん無いではありませんでしたが、どうしても江戸の旗本あたりのように綺麗にゆかなかったそうであります。それで京都あたりでも、ほんとにあの社会で好かれたものは薩長でもなく、土佐や肥前でもなく、やはり江戸の侍であったというこ
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