《おどか》しといたから、やつらもムクを殺しはしめえ、生きていりゃあ、ムクのことだから、山ん中にいようと谷底に隠れていようと、あとを尋ねて来るからなあ」
「ほんとにそうだといいけれど」
「そうに違えねえ」
これらの連中の頭は実に単純を極めておりました。お玉は何の故にして自分が召捕《めしと》りに来られたのだかわからない。米友もまたもとよりそれがわからない。おたがいにわからない同士で逃げ出したり助けに行ったり、泣きごとを言ったり啖呵《たんか》を切ったりしている。彼等にとっては人間の出来事も偶然の天災も同じことで、地震、雷、火事の場合と同じように、当面のことだけ逃げたり避けたり反抗したりしていればよいつもりでいるのでした。
お玉には笠を被《かぶ》せて、身なりもなるべくお玉でないようにし、米友もまた笠を被って人目を隠し、袋へはあり合せた食料や日用品を詰め込んで肩にかけて飛び出しました。
「玉ちゃん、俺《おい》らは考えたがな、山へ逃げ込むよりもだな、これからずっ[#「ずっ」に傍点]と南へ行って野見坂峠というのを越すと鵜倉《うくら》という浜辺へ出るからな、その浜辺から船へ乗って逃げようじゃねえか、船へ乗っちまえばお前、熊野へ行こうと宮へ行こうと勝手なもんだ、役人だって、それまで追いかけちゃ来られねえんだ」
米友がこう言い出したのは、宮川をズンズンさかのぼって、川口というところから中《なか》の郷《ごう》へ来かかった時分でありました。
「それもそうだね、友さんのよいようにして下さい。けれどもね友さん、舟へ乗っちまってはムクが尋ねて来られないじゃないか」
「それもそうだな……よしよし、それじゃどっちにしろ、いったん浜辺へ着いてから、お前を隠しておいて俺《おい》らはまた引返して、もう一ぺんムクを尋ねに行って来らあ」
「それは危ないよ」
「ナニ、隠れて行きゃあ大丈夫だ」
「それだってお前、危ないさ。仕方がないからムクのことはムクとしておいて、その浜辺とやらへ早く逃げましょうよ」
「それがよかろう、俺らはムクのことは大丈夫だと思ってるんだ、あの犬は人に殺される気遣《きづけ》えはねえとこう思ってるんだ」
「わたしもなんだか、そう思えて仕方がないの、いつもムクがいなけりゃあモット淋しいんだが、今度はそんなに淋しいとは思わないから、きっとムクは無事なんだよ、それでわたしは安心している」
「まあ、なんにしてもここまで無事に来りゃあもう占めたもの、どこか今夜はひとつ山神《さんじん》の祠《ほこら》でもお借り申して一晩泊めてもらって、それから明日の朝、野見坂峠を越して鵜倉へ出るんだ。玉ちゃん草臥《くたび》れたろう、もう一息だ、我慢しな」
「なあに、そんなに草臥れやしませんよ」
たしかに六七里は来ているから、お玉の足ではかなり草臥れていました。所帯道具を背負《しょ》っているために、米友は今更お玉を背負ってやるわけにもゆきません。
「やあ橋がこわれてやがる。何だ、出逢橋《であいばし》だって。洒落《しゃれ》た名前だな、出逢橋がこわれて縁切橋なんぞは気が利かねえ。飛んじまえ。玉ちゃんお前、飛べるかえ。飛べなきゃあ、どっかから丸太を探し出して橋をかけてやるがどうだい」
米友は軽々とそのこわれた板橋の間を飛び越えてしまって、荷物をそこへ下ろしているとお玉は、
「飛べますよ、このくらいのところ、わたしだって」
距離は一間ぐらいしかないのだから、お玉も何の気なしに、
「どっこいしょ」
米友が気づかっているのを無頓着《むとんちゃく》に飛びは飛んだが、見事に飛び損《そこ》ねてしまいました。
「あれ――」
「ソレ、だから言わねえこっちゃあねえ」
米友は喫驚《びっくり》して小川に陥《はま》ったお玉の手を取る。川は小さな流れだけれども、相当の深さでありました。
そういう場合における米友は注文より以上に敏捷《すばし》っこいので、女を水物《みずもの》にしてしまうようなことはなく、お玉がおっこち[#「おっこち」に傍点]るが早いか直ぐに腕を取って引き上げてしまいました。
「だから言わねえこっちゃあねえ、待っていりゃあ丸太を持って来て橋を架《か》けてやるものを、気の短けえことったら」
米友は小言《こごと》を言いながらお玉を引き上げていると、
「ふだんならこのくらいのところは何でもないけれど、今は気が急《せ》いているもんだから」
「まあ、仕方がねえ。これビショ濡れだ、上着も帯も。それに向《むこ》う脛《ずね》を少し摺《す》り剥《む》いたね、痛いかえ」
「痛かあありません」
「これじゃあ道中ができねえ、そうかと言って人の家へは寄れねえ旅なんだから、山ん中へ入ろう、まだ泊るには早いけれど、どこかでその着物を乾かすところを探さなくっちゃあな」
「そうだねえ」
「エエと、あの高《たけ》えのが獅子ヶ鼻という山だ、あの山の蔭へ行ってみたら、いいところがあるかも知れねえ」
「行きましょう、人が来るといけないから早く」
二人はなお南へ行こうとした道を曲げて、西の方へ道のない山ふところを分けて獅子ヶ鼻の山の下へ出ました。
四方を見れば寂然《じゃくねん》として深谷《しんこく》の中にある思い、風もないから木も動かぬ、日の光が、照すのでなく覗《のぞ》くようにとろり[#「とろり」に傍点]としている。
「玉ちゃん、さあ着物を脱ぎねえ」
大きな樅《もみ》の木の下、岩角が自然と洞《ほら》になっているところ、米友はそこを見出して自分が先に荷物を卸《おろ》して、
「ここなら誂《あつら》え向き、その木と木の間へいま梁《はり》をこしらえるから、そこへ着物をかけて乾かしておけば、着物の乾く間、それが屋根にならあ」
立枯《たちがれ》の木をへし折って、それを蔓《つる》で結《ゆわ》えて干場《ほしば》を拵《こしら》える。
「さあ、干場が出来たから着物を脱ぎねえ」
お玉は解きかけながら、
「米友さん」
「何だい」
「襦袢《じゅばん》まで湿《しめ》ってるんだよ」
「なら襦袢まで脱いだらよかろう」
「襦袢まで脱げば裸《はだか》になってしまうじゃないか」
「裸だって仕方が無え」
「裸になるのはいやだねえ」
「いやだって、その濡れた着物を着ちゃあいられめえ」
「それだってお前」
「何だい」
「恥かしいねえ」
お玉は、はにかん[#「はにかん」に傍点]で面《かお》を赤くする。米友は猿のような眼を円くして、
「恥かしい?」
そう言って四方《あたり》を見廻したが森閑《しんかん》たる谷の中。
「恥かしいったって、誰もいやしねえじゃねえか」
「誰もいないったって、恥かしいわ。それにお前も見ているじゃないか」
「俺《おい》らが見ていたって……」
米友は四方《あたり》を見廻した面をお玉の面へ持って行くと、
「うん、なるほど、お前が裸になるのがいやなら、俺らが先に裸にならあ」
「友さん、お前が裸になってどうするの」
「俺らの着物をお前に着せてやろう」
「それではお前が裸になるじゃないか」
「そりゃそうさ、どっちかひとり裸にならなけりゃ納まりがつくめえ」
「それでもお前を裸にしちゃあ気の毒だわ」
「お前は裸になるのが恥かしいというじゃねえか、俺らは裸なんぞはちっとも恥かしいとは思わねえ、裸の方がいい心持なくらいなもんだ」
「それじゃあ済まないけれど、そうしておくれ」
「そうしてやらあ」
米友は無雑作《むぞうさ》に帯を解いて、自分の着ていた着物を脱いでクルクルと纏《まと》めてお玉に渡します。
なるほど、米友は自分で裸の方が好きだという通り、見た目にも裸の方がよろしいのでありました。着物を着ていたんでは小兵《こひょう》の米友の肉の締りかげんはわからないが、着物を脱ぐとはじめてその筋肉の美観が現われる。名工の刻んだ四天王の木彫を見るような骨格肉附。
「ほんとうに友さんの身体は小柄だけれどもよく締まっていること」
お玉はお愛想を言って、米友の脱いで貸してくれた着物を受取ります。
「火を焚きつけてやろう、火をひとつ」
持って来た所帯袋から米友は火打を取り出して、松葉や枯枝を掻き集めて焚火をはじめると、お玉は後ろを向いて帯を解いて上着から脱ぎかける。
「早く引き上げてもらったから、水の透《とお》らないところもあるけれど、帯の間なんぞは、こんなにグチャグチャ」
帯にも下締《したじめ》にも水が入っている。
「風邪《かぜ》でも引くといけねえ」
米友は猿のような口を尖《とが》らして火を吹く。お玉は上着を脱いでしまうと下着、その上着だけを米友が手早く取って干場へかける。
下着と襦袢とを一緒に脱いで、後向きにお玉の半月のような肩が顕《あらわ》れる。火を吹いていた米友が、
「それ、何か落っこった」
「調戯《からか》っちゃいけないよ」
「何か落ちたよ」
「そんなことを言うもんじゃありませんよ」
お玉は赤くなって、素早《すばや》く米友の着物を着換えてしまう。
お玉は米友が、わざと調戯っているのだと思っています。
「大事なものじゃねえのかい」
「およしなさいよ」
「それ、そこに」
「いやだね」
「そこに白いものが落ちてるじゃねえか」
白いものと言われて、お玉はハッと気がつきました。米友は調戯《からか》っているのでもなければ嫌味《いやみ》を言っているのでもない、またそういうことの言える人間でもないのであって、事実、お玉が着物を着換えようとしてそこへ取落したものがあったのです。
「アッ、これは」
事に紛《まぎ》れて今まですっかり[#「すっかり」に傍点]忘れていたが、これは昨晩、備前屋の裏口で幽霊のような女から頼まれた手紙――金の方は包みかけて置きっぱなしで逃げて来たが、手紙だけは懐ろへ入れていたのを、この時までちっとも気がつかなかった。落してみればその手紙、同じようにグッショリと濡れ切っていました。
「これは大切なもの、今まですっかり忘れていた」
お玉は、あわててそれを拾い取って、
「申しわけがない、こんなに濡らしちまって」
この時、米友の焚きつけた火はよく燃え上る。
「手紙かい、濡れたんなら、ここで乾かすがいい、火であぶってやろう」
大事そうにお玉は濡れた手紙を取って米友に渡しながら、
「昨晩《ゆうべ》、備前屋で頼まれた手紙、懐ろへ入れたまんまで今まで忘れていました。ああ、お金の方はどうなったかしら」
「頼まれ物は大事にしなくちゃあいけねえ。おやおや、グショグショだ、封じ目もなにも離れちゃった、このままでは手がつけられねえ。おっと待ったり、いいことがある、この笠の上へ拡げて、遠火《とおび》であぶるとやらかせ」
被《かぶ》って来た笠の上へ濡れた手紙を置いて、封じ目もなにも離れてしまったから、爪の先で拡げて火の傍へ持って来ます。その間にお玉は米友の衣裳《いしょう》に着替えてしまって火の傍へ来ると、米友は干場にかけた着物を表は天日《てんぴ》で、裏は焚火で両面から乾かすようにしておいて、二人が焚火を囲んで座を占めます。
「紙の方が乾きが早いや、もうこれカサカサになった、もとのように捲《ま》いて封じ目を拵《こしら》えておいてやれ」
笠の上の濡れ手紙が乾いたから、米友はそれを捲き直そうとすると、
「友さん、お前は字が読めたねえ」
「読めなくってよ、いろはにほへとから源平藤橘《げんぺいとうきつ》、それから三字経《さんじきょう》に千字文《せんじもん》、四書五経の素読《そどく》まで俺らは習っているんだ」
米友は少しく得意の体《てい》。
「それはよかった、それではその手紙は、どこへ届けるのだか読んで下さい」
「何だって? お前、届先を聞かねえで手紙を頼まれて来るやつもねえもんじゃねえか。どれ、読んでみてやろう」
「読んで下さい、こんな騒動がなければ早く届けて上げるんでしたに」
「エート」
米友は仔細《しさい》らしい面《かお》をしてその手紙の表を見て、
「女文字《おんなもじ》だね、女にしちゃよく書いてある。なんだ……大湊《おおみなと》、与兵衛様方小島様まいる――おやおや、この宛先は大湊だよ」
「まあ大湊……それではまるでこことは方角違い、早く届けれ
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