生命がけでやる米友の曲芸。ただ見る丈《たけ》四尺あるやなしの小兵《こひょう》の男。竿に仕かけた槍を遣うこと神の如く、魔の如く、電《いなずま》の如く、隼《はやぶさ》の如し。
「ああ、見事な働き」
 兵馬は眼を拭って、我とも知らず人を押し分けて前へ出る。
「御所望《ごしょもう》致す、そのお手槍《てやり》をお貸し下されますまいか」
 暫らく見ていた宇津木兵馬は、山田奉行の役人の下僕《しもべ》とも見える男の傍へ寄って、その持っている槍をお貸し下されたしと申し入れます。
「槍をなんと致される」
 役人は兵馬に向って尋ねますと、
「あの小兵の男、何者とも知らねど槍の扱いぶり至極《しごく》めずらしい、一手《ひとて》応対を致してみたいと存じます」
「ナニ、貴公があの中へ出向いてみたいと言わるるか」
「左様にござる、で、卒爾《そつじ》ながらそのお槍の拝借をお願い致す儀でござる」
 若いに似合わず大胆な言いぶりでしたから、面々《めんめん》は感心もし、危なくも思い、
「それは近頃お勇ましいお申し出でござるが、御覧の通り、あれは人間業《にんげんわざ》でない奴、うっかり近づくよりは遠巻きに致して疲れを待つ方が得策でござる、捨てておかっしゃい」
「いやいや、あの勢いではなかなか以て疲れは致しませぬ、たとえ一時《いっとき》たりとも参宮の街道を、あの狼藉《ろうぜき》に任せおくは心外、よって拙者が応対をしてみたいとの所望、それを御承知願いたい」
 役人は、兵馬が小賢《こざか》しい物の言いようをするとでも思ったのか、
「せっかくながら狼藉を取鎮めるは拙者共の役目、貴公らのお骨折りには及び申さぬ」
「しからば是非もない」
 兵馬はぜひなく立って、なお米友とムクとの働きぶりを見ようとしたが、人立ちで背伸びをしても中を覗くことができませんでした。ただ中でワァーッという声が崩れるように湧くばかり。
「そうれ来た! 逃げろ」
 兵馬の前にいた黒山の人間が浮足立《うきあしだ》って崩れると、その中で米友の大音。
「やい、やい、いつまでもこうしちゃいられねえ、道をあけなけりゃあ、血を見せるぞ、血の河を流して人の堤《どて》を突切るからそう思え、俺《おい》らは悪人でねえから血を見るのも嫌《きれ》えだし、見せるのもいやなんだが、汝《てめえ》たちがあんまり執念《しつこ》いから、一番、真槍《しんそう》の突きっぷりを見せてやることになるんだ、さあ来やがれ、今までは米友様の御遠慮でなるべく怪我のねえように扱ってやったんだ、こうなりゃ肉も血も骨も突削《つっけず》るからそう思え、千人に一人も逃しっこはねえぞ、淡路流の槍に米友様の精分が入ってるこの槍先の田楽串《でんがくざし》が一本食ってみてえ奴は、お辞儀なしに前へ出ろ、それがいやなら道をあけて通しやがれ」
 この猛烈なる悪態《あくたい》で浮足立った人が総崩《そうくず》れになって、奔流《ほんりゅう》の如く逃げ走る。兵馬に槍を貸すことを謝絶《ことわ》った役人連中までが逃げかかる。
「ともかくも、そのお槍をお貸し下さい」
 逃げようとした槍持の手から兵馬は手槍を奪い取る、奪い取ったのではない、抛《ほう》り出して逃げようとしたのを兵馬が拾い上げたまでなのでありました。兵馬がその槍を拾い取ると、
「あ、殺《や》られた」
 米友はついに捕手か弥次馬かを突き伏せてしまったと見える。
 血を見ると寄手《よせて》も狂う、米友はなお狂う。一人突くも十人突くも罪は同じ、それで米友は死物狂《しにものぐる》いになったらしいのであります。
 曲芸気取りでやっていてさえ、米友の網竿《あみざお》は恐ろしい、死物狂いになって真剣に荒《あば》れ出されてはたまらない、深傷《ふかで》、浅傷《あさで》の槍創《やりきず》を負って逃げ退《の》くもの数知れず、米友は無人の境を行くように槍を突っかけて飛び廻る。ムクもまたそれに続く。
 そこへスーと手槍を突き出したのが宇津木兵馬でありました。
「待て」
「馬鹿野郎、俺《おい》らの前へ槍を出す奴があるか」
 兵馬の突き出した槍は米友を驚かしました。米友が何故に驚いたかといえば、自分の前へ槍を突き出すのは、餅屋の前へ来て餅を売り、川の岸へ来て水を売るのと同じことだから、それで驚いたものと見えます。なにも兵馬の槍先が最初から怖ろしいのでそれで驚いたのではありませんでした。槍を取れば、宇治山田の米友の眼中に人はなくなるのだから、驚いた後は小癪《こしゃく》に触《さわ》ってただ一突きに突き倒す気合で来たのを、中段につけていた兵馬はスーとそれを引いて、撞木返《しゅもくがえ》りに米友の咽喉元へ槍が行く。
「や、や、や」

 米友はタジタジと後ろへさがった。
「やるな、こん畜生」
 後ろへさがって米友は待《まち》の形《かた》に槍を構え直した。兵馬は敵の退いただけ、それだけ足を進めて槍もそれと合致して進む。
「それ!」
 米友の懸《かか》って覘うところは兵馬の眼と鼻の間。その隼《はやぶさ》のような眼の働き。兵馬はそれに驚かず、ジリリジリリと槍をつけている。
 兵馬の槍は格に入《い》った槍、大和の国|三輪《みわ》大明神の社家《しゃけ》植田丹後守から、鎌宝蔵院の極意《ごくい》を伝えられていることは知る人もあろう。島田虎之助の門下で、大石進の故智を学んで、刀を以て下《さ》げ針《ばり》を突くの精妙を極めていることも知る人は知るであろうが、ここの見物はそんなことは知らず、米友も無論そんなことは知らず。
 縁もゆかりもないところで、事を好んで危《あやう》きに近寄るのは、人の難儀を見て見のがせなかったためか、ただしは多くの人の見る前で腕を現わしてみたいのか、いくら兵馬が年が若いからとて、それほど物好きに仕立てられてはいないはず。兵馬が米友に向ったのは、米友の槍の使いがあまりに奇妙不思議であったからでありました。まず手に持っているのが槍だか竿だかわからないのに、その使いぶりときた日には格も法も一切|蹂躪《じゅうりん》し去って野性|横溢《おういつ》、奇妙幻出、なんとも名状することができないのがあまりに不思議でありました。
 兵馬は剣においても槍においても、そのころの大宗師《だいそうし》の正々堂々たる格法を見習っている人でありました。それが今ここへ来て米友の仕業《しわざ》を見れば、まさしくこれは別の世界に驕《おご》っている人と思わないわけにはゆきませんでした。驕るにはあらず寧《むし》ろ天真流露、自ら知らずして自ら得ている人に近い。兵馬が感心をしたのはそれで、思いがけないところで思いがけない宝を掘り出したと同じ思いがするのでありました。それを取ることは明眼《めいげん》の人の義務であって、人のためでもない自分のためでもないという心からでした。
 兵馬の知ろうとして、まだ知ることのできないのは机竜之助が音無しの構え。それにも拘《かかわ》らずここでは思わざる拾い物をした。
 兵馬は槍を上段につけて、米友の咽喉を扼《やく》している。
 米友は猿のような眼をかがやかして、槍を七三の形《かた》にして米友一流の備え。ムクはじっと両足を揃えたまま兵馬を睨《にら》んで唸っています。逃げ足の立った見物は、ここでまた引返して四方から取囲むとこれは思いがけぬ槍試合、槍を上段につけたまま兵馬が一歩進むと米友が一歩退く。
 一歩一歩と兵馬は追い詰めて行く、米友は一歩一歩とさがって行く、ムクもそれにつれてジリジリと米友並みにさがる。
 兵馬に米友を突くつもりのないことはわかっている。兵馬はただこうして一歩一歩と米友を追いつめてさえおれば、ついに彼は窮して槍を投げ出すものと思っているらしい。それだから兵馬は、いつも上段の位を換えずに極めて少しずつ追い込んで行く。
 米友は猿のような眼をクルクルと廻して、歯を噛みならして、色は真赤になる。突き出すこともできず、払いのけることもできず、焦《じ》れてウォーウォーと叫ぶ。米友の陣立てが悪い時、それを補うのがムクの役目でなければならぬ。それが米友並みに一足ずつ引いて行ったのではムクらしくもない。気を見ることを知っているムクは、兵馬の槍先がたとえ米友の咽喉へ向いていたからにしたところで、そこで固まってしまう槍でないことを知っている。変化の働きを怖るればこそ、同じように引いて行くのではあるまいか。或いはまた、兵馬に米友を突くの心なしと見て取って、ワザと後《おく》れているのではあるまいか。
 しかしながら米友は脂汗《あぶらあせ》を流して、いよいよ追い詰められる。
 この間がなかなか長い、見物は静まり返って手に汗を握る。
 兵馬は追い詰め、米友は突き詰められて、とうとう前の大榎《おおえのき》のところまで来てしまいました。大榎を背中にして米友はこれより後ろへは一歩も退《ひ》くことはできぬ。兵馬が前の調子で進んで行けば、米友は勢いこの大榎の幹へ串刺《くしざ》しに縫いつけられる。
 米友の五体は茹《ゆ》で上げたように真赤になる、筋肉がピリピリと動き出した。ムクもまたその傍まで来て、兵馬を睨んで唸っている。絶体絶命と見えた時、
「エヤア」
 なんとも名状すべからざる奇声を立てて米友の竿は兵馬の面上に向って飛び出した。と思うと、竿は米友の手から離れて矢車のように宙天に飛び上る。
「エエしまった!」
 米友の突き出す槍を兵馬は下からすくう[#「すくう」に傍点]て撥《は》ね返してしまったらしい。米友の竿を撥ね返した兵馬は、その槍で直接《すぐさま》附け入って咽喉元をグサと貫く手順であったが、それがそういかないで、槍を手元に引いてしまいました。
 大榎に串刺しに縫いつけらるべきはずの米友がそこにはいない。この時、大榎の上の枝の間から声がする。
「やいやい、手前《てめえ》はエライ奴だ、宇治山田の米友の竿を撥ね落す奴は日本に二人とはあるめえ、その腕に惚《ほ》れたから、米友が今日は綺麗に負けて逃げてやらあ、だがな、おい、役人、町のやつら、ムクを殺すと承知しねえぞ、ムクを殺すようなことがあれば、この米友が宇治と山田の町へ火をつけて焼き払うからそう思え、宇治と山田の町へ火をつけたら、手前たちはよくっても大神宮様に申しわけがあるめえ、火をつけられるのがいやだと思ったらムクを放してやれ、いいか、それ屋根から屋根へ飛んで米友様がお逃げあそばすのだ、弥次馬どきやがれ」
 屋根にいた弥次馬連はこの声を聞いて、屋根から転《ころ》び落つるほどに驚いて逃げ走りました。
 米友は榎から屋根、屋根から屋根、瞬《またた》く間《ま》に姿を隠してしまった身の軽いこと。

         十一

「いけねえ、いけねえ」
 米友は茹《ゆ》でたようになって、隠《かくれ》ヶ岡《おか》のわが荒家《あばらや》へ帰って来ると、戸棚に隠れていたお玉が出て、
「ムクは殺されてしまって?」
「ううん、殺されやあしねえけれど助からなかった、古市の町へ逃げ込んで、大勢に囲まれているんだ、ムクのことも心配《しんぺい》だが、お前《めえ》と俺《おい》らもこうしちゃあいられねえ」
「どこへ逃げましょうね」
「どこと言って俺にも当《あて》はねえ、山の方へ逃げてみよう」
「友さん、竿をどうしたの」
「ばかばかしいやい、宇治山田の米友が商売物の竿を召し上げられちゃった」
「誰かにあれを取られたの」
「そんなことはどうでもいい、早く逃げなくちゃいけねえ、玉ちゃん、俺の背中へ乗っかりねえ」
「わたしだって歩けますよ」
「歩けるたって世話が焼けていけねえ、引担《ひっかつ》いで行くから遠慮をしなさんな」
「でも、こんな大きな姿《なり》をして負《おぶ》さってはきまりが悪いから、歩けるだけ歩きますよ」
「きまりが悪いどころの話じゃねえ、お前と俺はここを逃げると二度とふたたび、この土地へ足を踏ん込めねえんだ、山へ逃げ込めば山ん中で当分かくれて里へは出られねえんだ、だからここに有合せものの栗でも薯《いも》でもお米でも、みんなこの袋へ入れて俺《おい》らが担いで行くよ」
「そうしましょう、それにしてもわたしはムクのことが心配になる」
「心配しなさんな、俺らが町のやつらを嚇
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