れを「網受け」と申します。
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「織田|平《たひら》ノ信長没落後、家臣|鳥屋尾《とりやを》左京ト申ス者、当所ニ来住ス。傍輩《はうばい》ノ浪人ハ其ノ縁ヲ以テ諸大名ニ奉公ニ出デ、又左京儀ハ他家ノ主人ニ仕フル事、本意ナラズ存ゼラレ候。然レドモ浪人ノ身、渡世ノ送リ様コレ無キヤ、毎日大橋ノ下ヘ出デ竹末《ちくまつ》ニ編笠ヲ付ケ槍ノ上手故、其ノ目的ヲ以テ諸参宮人ニ銭ヲ乞ヒ百銭ニ一銭モ受ケ落スト云フコトナシ」
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 この鳥屋尾左京を網受けの元祖として、米友はその流れを汲んで、やはり宇治橋の下で網受けをしているけれど、身分は左京の後裔《こうえい》でもなんでもない、同じく拝田村系統のほいと[#「ほいと」に傍点]の出であります。
 米友の天性は小兵《こひょう》で敏捷《びんしょう》。この網受けに割振《わりふ》られるものは、まず槍の使い方を習わせられるのを常例とする。米友はその常例によって、旅に来た浪人から「淡路流《あわじりゅう》」の槍の一手を教えられたが、三日教えられると直ぐにその秘伝《こつ》を会得《えとく》してしまいました。
 淡路流の槍は穂先が短い、掌《てのひら》で掴《つか》むと隠れてしまう。穂先を左の掌で掴んで、右手で槍の七三のあたりを持つと、それで構えが出来る、その構えたところを相手が見ると、槍を構えているとは見えない、棒か竿か? と敵が当惑した瞬間に、短い穂先は掌から飛び出して咽喉元へプツリ。実に魔の如き俊敏なる槍であります。
 この俊敏なる淡路流の槍を遣《つか》うべく米友の天性恰好が誂《あつら》え向きに出来ておりました。
 米友は槍を学ぶとしては前後にたった三日であるが、槍を扱う素質とては一日の故ではありませんでした。庭を飛ぶトンボを突く、川を泳ぐ魚を突く、今も鶏を追う鼬を突いた。そのくらいだから、宇治橋の下に立って、客の投げる銭を百に一つも受け外《はず》すということはないのでありました。それに加うるによく木登りをする、高いところから飛ぶ、広い間を飛び越える、深い水を泳ぐ。天公《てんこう》はいたずら者で、世間並みでないところへ世間並み以上の者を作る、お杉お玉の容貌《きりょう》もそれで、米友の俊敏なる天性もそれであります。

         十

 ここにまた話が変って、古市の町の豆腐六《とうふろく》のうどん[#「うどん」に傍点]屋の前のことになる。この豆腐六のうどん[#「うどん」に傍点]屋でうどん[#「うどん」に傍点]を食べていたまだ前髪立ちの旅の若い侍――と廻りくどく言うよりは、宇津木兵馬といった方が前からの読者にはわかりがよいのであります。
 宇津木兵馬は、紀州の竜神村で、兄の仇《かたき》机竜之助の姿を見失ってから、今日はここへ来ているが、七兵衛やお松の姿はここには見えませんでした。兵馬は一人でここへ来て、一人でこれから内宮へ参詣をしようという途中にあるのでありました。
 豆腐六のうどん[#「うどん」に傍点]は雪のように白くて玉のように太い、それに墨のように黒い醤油を十滴ほどかけて食う。
「このうどん[#「うどん」に傍点]を生きているうちに食わなければ、死んで閻魔《えんま》に叱られる」――土地の人にはこう言い囃《はや》されている名物。兵馬はそれと知らずにこのうどん[#「うどん」に傍点]を食べていると、表が騒々《そうぞう》しい。
「何事だ、何事だ」
 店にいたものはみんな表を見る。通りかかった人が逆に逃げる。牛馬が驚いて嘶《いなな》く、犬が吠えて走る、鶏が飛んで屋根へ上るという騒ぎであります。
「狂犬《やまいぬ》が出た!」
 ワァーッと叫びます。怖いもの見たさの店にいた連中は飛び出して見ると、ワッワッと逃げ惑う人畜の向うから、疾風《はやて》の如く飛び狂って来る大きな犬があるのであります。
「ムクだムクだ、間の山のお玉のムク犬だ」
 村方《むらかた》の方から驀然《まっしぐら》にこの古市の町へ走り込んだムクのあとを追いかけて来るのが何十人という人、得物《えもの》を持ち、石や瓦を抱えている。前には役人連、そのあとから番太《ばんた》、破落戸《ごろつき》、弥次馬の類《たぐい》が続く。
「それ狂犬だア、逃げろ!」
 追いかけたのとは反対の側から、また数十人、同じく役人、岡引《おかっぴき》、番太、破落戸、弥次馬の一連。
「そうれ、逃がすな」
 ムクは古市の町の左側の大榎《おおえのき》のところまで来た時分に、前後から挟み打ちにされてしまいました。
 大榎を後ろにしてムクの眼は蛍のように光る。血を浴びた首筋の毛が逆さに立って獅子の鬣《たてがみ》を見るようでありました。
 前足を組み違えて、尾をキリキリと捲き上げて、火を吹くような声で、ウォーウォーと唸《うな》って、もはやドチラへも切れることのできない囲みの中に立ち迷うていました。
「狂犬《やまいぬ》を打ち殺せ」
 石や瓦や棒片《ぼうぎれ》が、立ち迷うているムクをめがけて雨のように降る。
 ムク犬は決して狂犬《やまいぬ》になったわけではない。主人の危急を救わんとして狂犬にさせられてしまったのでありました。かわいそうに、ムク犬もこうしていれば、けっきょく狂犬としてここで殺されるよりほかはないのでありましょう。
 時に天の一方から、
「どいた! どいた! どきあがれ」
 鉄砲玉のように飛びこんで来た一人の小男、諸肌脱《もろはだぬ》ぎで竹の竿に五色の網。
「やいやい、ムクは狂犬じゃねえんだ、汝《てめえ》たちが狂犬にしちまったんだ、ムクを殺しやがると承知しねえぞ」
 それは米友でありました。四尺の身体に隆々と瘤《こぶ》が出来て、金剛力士を小さくした形。
「イヨー米友!」
 妙な役者が飛び出したと、屋根の上で見物していた弥次馬が一斉に囃《はや》し出すと、米友は網竿を水車のように廻して、
「ムクは温和《おとな》しい犬なんだ、今まで人を吠えたことも、食いついたこともねえ犬なんだ、それを汝《てめえ》たちが寄ってたかって狂犬にしてしまいやがる、ざまを見やがれ、その温和しいムクが怒るとこんなものなんだ、一疋の畜生に何百てえ人間が、吠面《ほえづら》あ掻《か》いて逃げ損《そこ》なっていやあがる、このうえ米友様の御機嫌を損ねたらどうするつもりだ、さあ通せ、道を開いて通せ、ムク様と米友様のお通りだから道を開いて素直《すなお》に通せやい」
「イヨー米友、大出来」
「通さなけりゃ、こっちにも了簡《りょうけん》がある、やい、早くそこの道を開きやがれ」
 米友は勇気|凛々《りんりん》として、竿を打振って行手の群衆に道を開けと命令する。
「あいつは、あの通り小兵だけれども、肉のブリブリと締まっていることを見ろ、あれで力のあることが大したものなんだ、身体のこなしの敏捷《すばしっこ》いことと言ったら木鼠《きねずみ》のようなもので、槍を遣《つか》わせては日本一だ」
 米友の手並は事実と誇張とで評判になって、恐怖の騒動の巷《ちまた》はここで一種の興味ある大人気を加えてしまいました。
 その時、誰が投げたかヒューと風を切って飛んで来た拳大《こぶしだい》の石。
「何をしやがる」
 竿の網を袋にならぬように強く張った五色の糸。それでムクの鼻面《はなづら》に飛んで来た石をパッと受け返す途端にまた一つ、米友の面《かお》を望んで飛んで来た石をすかさずパッと受け留めて、
「石の投銭《なげせん》というのは、鳥屋尾左京以来ねえ図だ、投げるなら投げてみろ、一つ二つとしみったれ[#「しみったれ」に傍点]な投げ方をするな、古市の町の石でも瓦でもありったけ投げてみやあがれ、それでも足りなきゃあ五十鈴川の河原の石と、宮川の流れの石とをお借り申して来て投げてみやがれ、それで足りねえ時は賽《さい》の河原《かわら》へ行って、お地蔵様の前からお借り申して来い、投げるのは手前《てめえ》たちの勝手だ、受けるのはこっちのお手の物だ、四尺に足りねえ米友の身体に汝《てめえ》たちの投げた石ころ一つでも当ったらお眼にかからあ、さあ投げろ、投げろ」
 米友は竿の先を手許《てもと》に繰《く》って、五色の網をキリキリと手丈夫に締め直すと、ヒューとまた鼻面《はなづら》に飛んで来たのを、鏡でも見るようにしてハッタと受けて、
「まだ早いやい、さあ来い!」
 竿を立て直すと、それが合図となって前後左右から注文通り、ヒューヒューと飛んで来る石と瓦が雨霰《あめあられ》。
「ムク、お前は俺の後ろに隠れていろ、その榎から背中を見せねえようにしろ、後ろからそっ[#「そっ」に傍点]と忍んで来る奴があったら、おれが承知だから遠慮なく食いついてやれ、噛み殺してもかまわねえぞ」
 大榎とムク犬を後ろにして立った米友。身近に来る石という石、瓦という瓦を、或いは竿を繰延《くりの》べて前で受け、或いは竿を手許に繰込んで面の前で受け、或いは身を沈めて空《くう》を飛ばせ、体を躍《おど》らせて飛び上る。
「やいやい、もちっと骨身のある投げ方をしやあがれ、ぶっついたら音のするように、当ったら砕けるように投げてみねえ、米友様が食い足りねえとおっしゃる――ナニ、鉄砲だって?」
 米友は屋根の上を屹《きっ》と見る。生薬屋《きぐすりや》の屋根の上へ火縄銃を担《かつ》ぎ上げたのは、米友も知っている田丸の町の藤吉という猟師であったから、
「ふざけちゃあいけねえぜ、米友様だってこれ、生身《なまみ》を持った身体《からだ》だ、飛道具でやられてたまるかい。ムク、こうしちゃあいられねえぞ、俺《おい》らに続け、合点《がってん》か」
 身を沈めて飛び来る石瓦をかわしながら、後ろを振返ってムクに合図をすると、竿の頭から五色の網を払いのける、明《めい》晃々《こうこう》たる淡路流の短い穂先。それを扱《しご》いて一文字に、群衆の中へ飛び込んでしまった、その早いこと。生薬屋の屋根の上から覘《ねら》いを定めようとした猟師の藤吉は、火縄を吹いて呆気《あっけ》に取られ、
「迅《はや》い奴だ、鉄砲玉より迅い」
 人混みの中へ鉄砲は打ち込めないから手持無沙汰《てもちぶさた》。
 米友が飛ぶと、ムクも飛ぶ。一団になって遠捲きにしていた群衆の頭の上から、人と犬とが一度に落ちて来たのだから、ワァーッと言って崩れ立つ。
「ざまあ見やがれ」
 弥次馬は崩れたが、逃げられないのは警護に出向いていた奉行《ぶぎょう》の捕手《とりて》。
「神妙に致せ、手向い致すと罪が重いぞ」
「好きで手向《てむけ》えをするんじゃねえ、汝《てめえ》たちが手向えをするように仕かけるから手向えするんだ、素直《すなお》に俺《おい》らとムクを通してくれ、道をあけて通してくれりゃ文句はねえんだ、やい通しやがれ」
 鉄砲の覘いを乱すために米友は、わざと人の中を割って働く。槍をグッと手元につめて七寸の位にして遣《つか》ってみる、隻手突《かたてづ》きに投げ出して八重に遣う。感心なことに、皮一重まで持って行って肉へは触《さわ》らせない、それで寄手《よせて》の連中がひっくり返る。後ろへ廻ってはムクがいる。八面|応酬《おうしゅう》して人と犬と一体、鉄砲を避けんために潜《もぐ》り、血路を開かんがために飛ぶ。
 どちらでも風向きのよい方に傾く屋根の上で見物の弥次馬は、米友とムクが生命《いのち》がけの曲芸を見てやんやと讃《ほ》め出してしまいました。さいぜんは面白半分に、米友とムクとに向って石や瓦を投げつけていた連中が、いつしか米友とムクとの贔屓《ひいき》になって声援をする。
 田丸の町の猟師の藤吉は、幾度か鉄砲を取り直してムクだけでも仕留めてやろうと覘《ねら》いをつけては、つけ損《そこな》う。騒ぎはますます大きくなって、古市の町はひっくり返りそうで、さしもの参宮道が一時は全く途絶《とだ》えてしまう。豆腐六のうどん[#「うどん」に傍点]を食いさした宇津木兵馬は、たかが一疋の狂犬に、さりとは仰々しい騒ぎよう哉《かな》と、いざ笠を被《かぶ》って店を出ようとするその出鼻《でばな》でこの騒ぎであるから、足を留めないわけにはゆきませんでした。人の肩越しからその気もなく覗いて見ると、さてもこの有様。
「はて
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