ころへ来て、
「お早うございます」
「お早うございます」
人間同士はあたりまえの挨拶をしたけれども、犬は人間の間に立ち塞《ふさ》がって、強弩《きょうど》の勢いを張っておりました。
「たいへん強そうな犬でございますねえ」
行商体の男はお世辞を言って、縁側へ腰を下ろしてしまいました。
「いつもこんなに吠えるのではないのですけれど……ムク、なぜそう聞きわけがないのです」
お玉は言いわけをしたり、叱ったりしながら、いま金ちゃんの母親に見せた印籠やなにかを包みに蔵《しま》おうとすると、
「ちょいと拝見、結構な印籠でございますね」
行商体の男が手を差伸べると、なお頻《しき》りに唸りつづけていたムクは、急に身を翻《ひるが》えして家の土間を潜《くぐ》り抜けて裏手の方へ飛んで行きましたが、そこでまた烈しく吠えます。
「ちょっ、どうしたと言うんでしょう、あっちこっちで吠え廻ってさ」
お玉はムクの吠えている裏口の方へ身をよじらせて、
「ムクや、ムクや」
烈しく吠えていたムクはこの呼び声で、また驀然《まっしぐら》に土間を突き抜けて、前のところへ戻って来て、行商体の男に向って鋭い睨め方。
「梨地《なしじ》に金蒔絵……絵は住吉の浜でございますな」
「そうでございましょう、松がよく出来ておりますね」
お玉は、行商体の男が見たいというのだからその印籠を見せると、男はそれを捻《ひね》くって、しきりにながめておりましたが、
「それに紐と言い、根付と言い、安い品じゃございません」
「うちなんぞにある品ではございません、拾い物でございますよ」
「拾い物、とおっしゃると、ちと心当りがありますね、どちらで拾いました」
「昨晩、古市で」
「古市で……そうでございましたか。あのもし、あなた様は間の山へおいでになるお玉さんというのではございませんか」
「はい、私がその玉でございますが」
「そうして昨晩、備前屋へお招《よ》ばれなすったお玉さん」
「へえ、あそこはたびたび御贔屓《ごひいき》になっておりまする、そして昨晩も」
「昨晩もあの、おいでになりましたか」
「お伺い致しました、その帰り途にこの印籠を拾いましたものですから、これからお届けに参ろうと存じます。そうして、あなた様にお心当りとおっしゃるのは……」
物狂《ものぐる》わしいムク犬は、またしてもここを捨てておいて、土間を突き抜けて裏口へ廻ってそこで烈しく吠えます。
「まあ、騒々しいことといったら」
お玉は、どうにもムク犬が制し切れないので困っていると、行商体の男は、ジロリとお玉の面《かお》から家の中を一廻り見廻して、
「お玉さん、お前さんこのお家に一人かね」
なんだか薄気味《うすきみ》の悪い問いぶり。
「ええ、ここは一人、向うが叔父の家」
「そうしてなにかえ、ゆうべ備前屋から帰りに連れがあったのかえ、それとも一人で仕事をして帰ったのかえ」
「連れがあったかとおっしゃるのは……」
「とぼけるな、お玉御用だ!」
懐ろから飛び出した銀磨《ぎんみが》きの十手《じって》。
「あれ――」
お玉の細い腕を逆に取る時、雷電の一時に落つるが如く飛び来《きた》った猛犬ムクは、物も言わせず大の男を縁より噛み伏せてしまいました。
「まあ、どうしたと言うんでしょう、わたしにはわからない、わたしにはわからない、わかりやしない」
お玉はあまりのことに、飛び上って、突っ立ったきりです。
行商体の男の有様こそ無惨《むざん》なもので、面の全部を腮《あご》から噛まれて、銀磨きの十手を抛《ほう》り出してそこへ突んのめってしまったのを、ムクはそのまま噛捨てにして、クルリと身を転ずるや、またしても土間を突き抜けて驀然《まっしぐら》に裏口へ飛んで行きました。
「御用」
表でこの騒ぎを知るや知らずや、今度は正銘《しょうめい》の捕方《とりかた》が五人、比較的に穏かな御用の掛声で、ドヤドヤと裏口からこの家へ押込んで来た。その出会頭《であいがしら》に、眼を瞋《いか》らし、歯を咬《か》み鳴らし、両足を揃えて猛然と備えたムク犬。
「わたしは何も……わたしは何も、お役人様に召捕られるような悪いことをした覚えはありません、それだのに、何もわけをお話し下さらずにわたしを捉《つか》まえようとなさるのは、あんまり、あんまり酷《ひど》い」
お玉はオロオロ声で愚痴《ぐち》を言いましたけれども、いま裏口から入って来る人数を見ると、わけもわからずに怖くなって、
「わたし、逃げるわ、何も悪いことをしないのに捉まっては合わないから逃げるわ、あとでわかることでしょうから逃げるわ」
お玉は無分別に、跣足《はだし》で縁を飛び下りて、無暗《むやみ》に逃げ出してしまいました。
「それ、お玉が逃げる、逃がすな」
お玉が逃げ出したと見た捕方が追いかけようとする、真先《まっさき》の男に飛びついたムクは、咽喉笛《のどぶえ》をグサと啣《くわ》えて、邪慳《じゃけん》に横に振る。
「あっ」
「憎い犬め!」
次のが十手で一撃を加えるのを、その手を潜《くぐ》って面《かお》にガブリと噛みついた、素早いこと。
「斬れ斬れ、叩っ斬れ」
あまりの猛勢にぜひなく白刃《しらは》を抜いて、一刀の下に斬り捨てんと振りかざせば、その刃を飛びくぐって、跳《は》ねつき、唸《うな》りつける凄《すさ》まじさ。
獣にも攻める獣と守る獣とがあります。山野における猛獣はすべて攻める獣であって、もし獅子《しし》を攻める獣の王とすれば、守る獣の王はまさしく犬であります。真に守ることを知る犬が、その天職に殉《じゅん》ずる時は獅子と相当ることすらできるのであります。ムク犬はそのよく守ることを知る犬でありました。
それがために、お玉は捕えられずに逃げ出すことができましたが、逃げ出したことが、お玉にとって幸か不幸か、それはまだわかりませんでした。仮りにも役目で向った人たちに、かかる猛烈な正当防衛を試むることの理非は、悲しい哉《かな》、ムク犬には判断がつきませんでした。
八
隠《かくれ》ヶ岡《おか》(尾上山《おべやま》)に近い荒家《あばらや》の中で、
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十七|姫御《ひめご》が旅に立つ
それを殿御《とのご》が聞きつけて
留まれ留まれと袖《そで》を曳《ひ》く
それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿
明日は吉日《きちにち》日も好いで
産土参《うぶすなまい》りをしましょうか
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これはしごく暢気《のんき》な鼻歌でありました。家の外には秋草の中に鶏頭《けいとう》が立っている。穀物だの芋《いも》だのが干《ほ》してあって、蓆《むしろ》の上で二三羽の鶏が餌を漁《あさ》って歩いていると、何に驚いてか、キャキャキャキャ、けたたましくその鶏が鳴き出して、小屋の屋根の上へ飛んで羽バタキをする、平和な田舎家《いなかや》の庭に不意に旋風《つむじかぜ》が捲いて起りました。
「また来やがったな」
とんぼ口から飛び出したのは、一人の子供……身の丈は四尺ぐらい、諸肌脱《もろはだぬ》ぎで、手に一本の竿《さお》を持って、ひょいと飛び出したところを見れば、誰も子供が出たと思います。
しかしよくよく見れば、子供ではないのでありました。面《かお》は猿のようで口が大きい、額《ひたい》には仔細《しさい》らしく三筋ばかりの皺《しわ》が畳んである。といって年寄ではない、隆々とした筋肉、鉄片を叩きつけたように締って、神将の名作を型にとって小さくした骨格。全体の釣合いからいえばよく整うていて不具ではないが、柄を見れば子供、面を見れば老人、肉を見れば錚々《そうそう》たる壮俊《わかもの》。
ことにおかしいのはその頭で、茶筅《ちゃせん》を頭の真中で五寸ばかり押立《おった》てている恰好《かっこう》たらない。
「こん畜生」
いきなり手に持っていた長い竿を秋草の植込の中へ突っ込んで引き出すと、その先へ田楽刺《でんがくざ》しに刺された黒いもの。
「ざまあ見ろ」
揚々としてその竿を手元に繰り込んで来ると、その竿の先に田楽刺しになった黒い物は一疋の鼬《いたち》でありました。焼鳥を串《くし》から引っこぬくように、鼬を竿の先から抜き取って、それを地面《じびた》へ叩きつけると、屋根の上へ飛び上った鶏がホッと安心したように下りて来て、いま自分たちを襲うた強敵が脆《もろ》くも無惨な最期《さいご》を遂げたことを弔《とむら》うかのように鼬の屍骸《しがい》を遠くから廻って、ククと鳴いているのであります。
「かまあねえから突っついて食ってしまえ、食ってしまえ」
竿の先を巾《きれ》で拭いているところを見ると、二寸ばかりの鋭利なる穂先が菱《ひし》のように立てられてあるのでありました。
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それを殿御が聞きつけて
留まれ留まれと袖を曳く
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これがこの先生の得意の鼻歌であると覚《おぼ》しく、前にもこれを歌っていたが、
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それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿……
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この時、裏手の方で、
「米友《よねとも》さん、米友さん、家にいるの、よう米友さん」
息を切った女の子の声。
「誰だい、玉ちゃんかい」
「米友さん」
この子供のような年寄のような壮者《わかもの》のような奇妙な男の名は米友というのでありました。そこへ駈け込んで来たのは、今なにもかも夢中で我が家を逃げ出して来たお玉であります。
「どうしたんだい、玉ちゃん、跣足《はだし》で、息を切って。唇の色まで変ってらあ」
「米友さん、大変なんだよ、大変が出来たんだから、わたしを隠して下さい」
「大変というのは、いったいどうしたんだい」
「わたしは何も悪いことをした覚えはないのに、お役人が来てわたしを捉《つか》まえて行こうとするもんだから、わたしは一生けんめい逃げて来たの」
「玉ちゃんを役人が捉まえるって? おかしいなあ、何かの間違いなんだろう」
「間違いなんだよ」
「何の間違いだろう」
「何だか、それがわかるくらいなら間違やしない、こうしている間にも追蒐《おいか》けて来るかも知れないから、早く隠して下さいよう」
「ここへ来れば大丈夫だよ、お前あの戸棚へ入っていれば、俺がここで仕事をしている、役人が来ても知らないと言うよ」
「早く、それでは戸棚へ入れておくれ」
「まだいいよ、足音が聞えてからでいいよ」
「だってお前」
「もし役人がぐずぐず言えば、この竿で嚇《おど》かしてやらあ」
「だってお前、役人に手向いしちゃ悪いよ」
「ナニ、嚇すだけだからいいよ。そりゃそうと玉ちゃん、ムクはどうしたんだえ、ムクが付いているはずじゃないか、お前が役人に捉まろうとする時にムクは黙っていたかえ」
「ムク?」
ムク、ああそうだ。
「米友さん、ムクを助けて来て下さい、早くムクを助けて下さい、ムクは殺されてしまいます、早く」
「ムクはお前の捉まりそうな時に、やっぱり家にいたのかい」
「ムクがお役人に噛みついている間に、わたしはここまで逃げて来たのよ、ムクのおかげでわたしは助かったのだから、お前さん早くムクを助けてやって下さい」
「よし、それじゃあ、ムクを助けに行ってやろう。玉ちゃん、お前はこの戸棚の中に隠れておいで」
「米友さん、怪我をしないようにして下さいよ、お役人に手向いなんぞをしないようにさ、そうしてムクだけを助けて来て下さい」
「大丈夫だよ、安心して隠れておいで、怪我をしねえように働いて、お役人にも怪我をさせねえようにして、ムクも怪我をさせねえでつれて来るから」
「どうぞ頼みますよ」
米友は、鼬《いたち》を突いた竿を手に取ってその穂先の鋭いところへ、柱にかけてあった五色の網の袋を差し込んで、それを小腋《こわき》にすると、とっとと表へ飛び出しました。
九
お杉お玉らは間の山へ出て客を呼ぶ、米友は宇治橋の下に立って客を呼んで銭《ぜに》を乞う。お杉お玉は三味線の撥《ばち》で客の投げた銭を受ける、米友はいま持っていた竿、竿の先の五色の網の袋で客の投げた銭を受け止めるのが商売で、そ
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