た眼が眠るように、死出の旅――で低く低く沈んで、唄を無限の底まで引いて行く。
 この時、いずれかの大楼ではまたしても賑《にぎわ》しき音頭の声、
「ヨイヨイヨイヤサ」
 遠くでは賑かな音頭、この座敷では死ぬような間の山節。

 この死ぬような間の山節を、死ぬような心地《ここち》で聞いていたものが、五人づれの客と、それを取巻くここの一座のほかに、まだ一人はあったのであります。
 中庭から向うへ張り出した中二階の一間が、間毎間毎《まごとまごと》の明るいのと違って、いやに陰気で薄暗い。それもそのはず、こには病気に悩む女、間夫狂《まぶぐる》いをする女、それらを保養と監禁と両方の意味に使用されるところですから、ここで血を吐いて死んだ女があるとか、幽霊が出るとか、そんな噂のしょっちゅう絶えたことのない一間であります。
 間の山節が始まる前に、この一間で墨をすり流して、巻紙をもうかなり長く使って、文《ふみ》を認《したた》めていた女。
 古市の遊女は、勝山髷《かつやままげ》に裲襠《しかけ》というような派手《はで》なことをしなかった、素人風《しろうとふう》の地味《じみ》な扮装《いでたち》でいたから、女によっては、それのうつり[#「うつり」に傍点]が非常によく、白ゆもじの年増《としま》に、年下の男が命を打込むまでに恋をしたというような話も往々あることでした。
 ここにいま文を書いている女も、病に悩む女でありましたが、素人風がこうしているとまでに取れないほど、それほど女の人柄《ひとがら》をよく見せるのでありました。
 朱塗りの角行燈《かくあんどん》の下で、筆を走らせては、また引止め、そうして時々は泣いている。そこへ前の、
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夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
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 書きさしていた筆をハラリと落して、じっと耳を澄ましていると、お玉の弾《ひ》きなす合の手が綾《あや》になって流れ散る。
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花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
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と来たものです。
「ああ、間の山節が聞える、死にたい死にたい、いっそ死んでしまおうかしら」
 ついと立って障子の破れから庭をのぞいて見たが、身《み》の幅《はば》ほどにそれをあけて下を見おろすと、植込の間から、かがやくばかりなる提灯燭台の広間と、うすぼんやりの燈籠の庭では前に記したような光景であります。
 広間では五人づれの若侍が、風流の気取りで聞いている。取巻きの連中は、忌々《いまいま》しい腹で聞いている。ここの二階では、死ぬつもりで聞いている。お玉は無心で、母親から伝えられたという節のままを天性の才能で唄っている。
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野辺より彼方の友とては……
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 この時、表に待っていたムク犬が、低く唸《うな》るように声を引いて吠えました。ムク犬が声を立てることは珍らしい。しかし、この時の吠え声は人を驚かすほどに高い声ではなかったから、誰もムク犬が鳴いたとさえ気がつかなかったのを、弾きさしていたお玉の三味線にはそれがこたえて、お玉はハッと撥《ばち》を取落すばかりにしました。
 ムク犬の吠える時は、お玉にとっては、きっとそれが何かの暗示になります。
 二声目を聞こうとしたが、それはそれだけで納まって、それからムク犬は吠えませんでした。

 お玉は、いくらかの紙包を貰って備前屋を出た時分は、もう夜もかなり更《ふ》けていました。門を出ればムク犬が待っていて、尾を振って迎えるはずのが、どうしたものか影も形も見せないのです。
「ムクや、ムクはどこへ行ったろう」
 お玉は呼んでみましたけれども、ムク犬は声も形もあらわしません。ムク犬が、お玉と一緒に来て、一緒に帰らぬことは今までにないことであります。ことに今宵《こよい》は帰れというのを聞かないで一緒に来て、来てみれば帰る時は姿を見せぬ、さっき低く吠えた時と言い、今こうして見えなくなったことと言い、お玉の胸には安からぬ思いであります。
「ムクや、ムクや」
 呼びながら、この備前屋の裏の方へ廻ってしまいますと、
「もし」
 暗いところから声があったのは、尋ねるムク犬の声ではなくして、細い女の声でありました。
「はい」
 お玉は足をとどめますと、裏の木戸をそっ[#「そっ」に傍点]とあけて、
「お前様は、あの、お庭で間の山節を唄いなすったお玉さん」
「左様でございます」
「お見かけ申して、お頼み申したいことがありまする」
「何でございますか、叶《かな》いますことならば」
「委細はこれに認《したた》めてござりまする、この手紙とこのお金、これをお届け下さりませ、届け先は……それはこの手紙の表に書いてありまする、こうしている間も心が急《せ》く、それではお頼み申しましたぞえ……」
 夜番の拍子木《ひょうしぎ》が聞える。
 女は一封の手紙と、金包とをお玉に渡してしかじかと頼んだきりで、ふいと木戸を締めて身を隠してしまいました。
 お玉は、そこはか[#「そこはか」に傍点]な物の頼みようと思いましたけれども、遊女衆などの間には、こんなことはないことでもない、あれほどの頼み、引受けて宛名のところへとどけて上げるも功徳《くどく》であろうと、
「御安心なさいませ、きっとお届け申し上げますから」
 塀《へい》の外から請合《うけあ》ったが、この時はもう中からは挨拶がありませんでした。
「ムクや、ほんとにムクはどうしたのだろうねえ」
 お玉はいま、女から受取った手紙と金とを懐中に入れて、しきりに犬を尋ねて、備前屋のまわりを廻ると夜番に出会《でっくわ》します。
「間の山のお玉さんではねえか」
 夜番の男もまたお玉を知っていました。
「はい」
「なんでこんなところをウロウロしているだ」
「ムクが見えませんから……夜番さん、ムクをどこぞで見ませんでしたか」
「知らねえ」
「左様でございますか」
 お玉は夜番にまでムクのことを聞いてみたが、やっぱり知らないというので失望して、とうとう備前屋の周囲《まわり》を一廻りしてしまいました。

 いくらムクを尋ねても、ムクは声も形も見えませんから、お玉は已《や》むことを得ず、ひとりで帰りの路に就きます。
 来た時と同じように、町の隅の方の人目にかからないようなところを、手拭を頭から被《かぶ》って後ろへ流し、三味線を後生大事《ごしょうだいじ》に抱えてさっさと歩いて行きます。
 今宵はお客様の強《た》っての所望《しょもう》で二度まで間の山節をうたい返した上、その因由《いわれ》などを知っている限り話させられたので、これほど晩《おそ》くなろうとは思わなかった、拝田村まで帰るには淋しいところもあるのだから、こうしてみるとムクのいないことが心細い。
「お玉が帰るじゃないか」
「お玉が帰るよ」
「ひとりで帰るねえ」
「ムクがいないや、ムクを連れないでお玉が帰る」
「送ってやろうか」
「危ない」
「でも一人で拝田村まで帰すのはかわいそうだ」
「ムク犬の代りをつとめるかな、犬の代りに狼、送り狼」
 地廻《じまわ》りの連中がこんなことを言い囃《はや》すものですから、お玉もいくらか気味が悪い、それでムクのいないことが、いよいよ物淋しくなって、足の運びは駈けるようになって行きますと、ちょうど町の外《はず》れへ来た時分に、ふいに飛び出して、お玉の裾《すそ》へまつわり[#「まつわり」に傍点]ついたものがあります。
「まあ、ムクかえ、どこにいたの、どこを歩いていたの」
 お玉は嬉しくてたまらない、腰を屈《かが》めてムクの背中を擦《さす》ってやろうとすると、ムクがその口に何か物を啣《くわ》えていることを知りました。
「何だえ、お前、何か啣えているね」
 頭を撫でながら、ムクの啣えているものを取りはずして見ると、それは思いがけなく一組の印籠《いんろう》でありました。
「おや、結構な印籠が……」
 お玉はそれを、町の方へ向けてなるべく明るいようにして、仔細に見ると、梨子地《なしじ》に住吉《すみよし》の浜を蒔絵《まきえ》にした四重の印籠に、翁《おきな》を出した象牙《ぞうげ》の根付《ねつけ》でありましたから、
「こんな結構な印籠を、お前どこから持って来たえ、拾ったのかえ、どこで拾ったの」
 犬は神妙に首を俛《た》れております。
「これは並大抵《なみたいてい》の人の持つ品ではない、きっと立派なお侍さんの持物だよ、御番所へお届けをしよう。でもこれから帰るのもなんだかおっくう[#「おっくう」に傍点]だから、明日の朝にしましょう、明日の朝、少し早く起きて、出がけに御番所へ届けるとしましょう」
 お玉は、その印籠をまた懐中へ入れますと、前に備前屋で女衆から頼まれた手紙と金包とに気がついて、今宵は懐の重いことをいまさらに感づいたようでした。
「おや、足の方は泥だらけになって。それにお前、怪我《けが》をしているね。おや、この顋《あご》のところから血が……」
 大した怪我ではないが、ムクはたしかに怪我をしている。
「洗って上げるからおいで、そこの流れで洗って、創《きず》を巻いて上げるから」

         六

 お玉が帰ってからその晩は無事でありましたが、朝になると、備前屋の楼上で二つの大変が持ち上りました。その一つの大変は、ゆうべ音頭を見て、間の山節を聞いて、酔うて寝た五人づれの侍が朝起きて見ると、一人残らず懐中のものを奪われていることでありました。
 さすがに腰の物だけは残されてあったが、懐中物の全部と、印籠までも盗《と》られてしまいました。
 あっと面色《かおいろ》を変えたものもある、なあーにとさあらぬ体《てい》に落着いて見せるのもありました。しかし大変は大変でありました。旅に来て路用を失くすることは誰にしても好い心持はしない。ことに女にうつつ[#「うつつ」に傍点]を抜かしている間に、肝腎《かんじん》のものをしてやられたのでは、あまり芳《かん》ばしい土産話にはならないのです。五人のお客も内心の腹立ちと悄気方《しょげかた》は一通りでないのですけれども、そこは時と場合で、そうクヨクヨ言ってもおられないのであります。
 お客の方が困るばかりでなく、店の方ではなおさら困ります。伊勢の古市のこれこれへ行って盗賊にやられたという噂《うわさ》が立つのは、大楼の暖簾《のれん》の手前もある、備前屋の主人は恐縮して、家の内と外とを隅から隅まで調べさせて、役人へも訴え出ようとするのをお客たちは差留めて、
「あればあったでよし、なければないでよいから、表沙汰にしてもらいたくない」
 彼等には彼等の身分というものがあって、表向きにされた時に、かえって金銭には換えられない恥を取るという懸念《けねん》もないではなかったようです。
 別段に他から賊の入った様子が見えないこと、これが第二の不思議であります。
 備前屋の主人は、家族から雇人、芸妓遊女の類《たぐい》を悉く足留めをして、いちいち裸《はだか》にするまでにして調べたけれども、品物は一つも出ては来ず、また、こいつが取ったろうと思われるような面付《かおつき》に見えるものは一人もありませんでした。
「どうもなんとも困ったことで、全く以て申しわけがないことじゃ」
 備前屋の主人が額《ひたい》へ手を当て当惑するところへ、愚直らしい夜番の男が口を出して、
「昨夜わしが夜番をして、こちらの裏の方を廻ると、あの間の山のお玉が、その塀《へい》の裏の方をウロウロしていたが、お玉がなんですかえ、こちら様へお呼ばれなすったのですかえ」
「あ、お玉……」
と言って、主人を囲んでそこに集まるほどの者がみんな眼を見合せました。宵からここへ出入りをした者で、ここに面《かお》の足りないのはそのお玉ばかりでありました。
「お玉がなにかえ、この家の裏の方を……」
「へえ、お玉さんが裏の潜《くぐ》りのところから出て塀をグルリと廻って……」
「ははあ、お玉がかい」
 一同は、お玉の名を言い合せてその眼が怪しく光りました。その時に、
「タタタ大変でござりまする、離れの中二階
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