なってしまいました。
「ああ、よい心持だ、長安の大道、酒家《しゅか》に眠るという意気はこれだな、ナニ、ここは長安の酒家じゃねえ、酒家でも堤の上でもそんなことは構わねえ、エート、天子呼び来《きた》れども船に上《のぼ》らずか――俺のところへはまだ天子様からお迎えは来ねえが、大名旗本にはこれでお得意が大分あるんだよ、大名旗本呼び来れども診察に行かずなんて、そんな野暮《やぼ》なことは俺は言わねえ、大名旗本であろうとも、乞食《こじき》非人《ひにん》であろうとも、十八文よこす奴はみんな俺のお得意様だからどこへでも行ってやる、矢でも鉄砲でも持って来い」
先生、ひとりで大気焔《だいきえん》を上げている。
「どうして世の中がこう面白いんだか、世間でクヨクヨしている奴の気が知れねえ、おしなべて天下の事が十八文できまりがつくんだ、十八文より高くもなし、そうかと言って十八文より安くもねえ、安いと高いは買いようによる」
なんだかロジックが変になってきました。道庵先生はいよいよ好い心持でウトウトとしていると、三味線、胡弓《こきゅう》と太鼓に合せた伊勢音頭《いせおんど》が、河波を渡って道庵先生のウトウトしかけたところへ、それがとうとうたらりと流れ込むので、先生の好い心持を、またもう一層よい心持にして、ついにそのままグッスリと夢に入ってしまいました。
暫くすると、このせっかくの好い心持になっていた道庵先生が、
「ア、痛ッ」
いやというほど頭を蹴飛《けと》ばされてしまったものです。
十八文で有頂天《うちょうてん》になっていた先生も、頭を蹴飛ばされればやはり痛いから、痛ッと言ってみたが、頭を抑えるのも気が利かないと見えて、申しわけに痛いと言っただけでまた眠ってしまおうとすると、その上へどさり[#「どさり」に傍点]と折重なった者がありました。いくら道庵先生でも踏んだり蹴ったりでは黙っていられない。
「誰だ、誰だ」
周章《あわて》て跳《は》ね起きると、
「どうも相済みません、どうか御免なすって」
折重なって倒れかかった人は、低い声をして丁寧に道庵先生にお詫《わ》びを申します。
「気をつけて歩きねえ」
「どうか御免なすって」
暗い中を通りかかって、ふと道庵先生の身体に躓《つまず》いて倒れたものと見えました。おりからの夢を破られて、道庵先生の酔いも少し薄らいでいたところへ、夜の河風が襟元《えりもと》に吹き込んだもんだから、眼がさめて大きな欠伸《あくび》をしました。見ると、一人の老人らしいのが小さな男を背中に引っかけて、しきりに道庵先生にお詫びをする。
「お怪我《けが》はございませんでしたか、ついこの通り病人を抱えておりますものでございますから」
「別に怪我もねえが、ずいぶん驚いたよ」
「どうも相済みません」
老人はお詫びを言って、道庵先生をとりなして、あえぎあえぎ向うへ行こうとするのを、
「おい、待った待った」
道庵先生が呼び止めました。
「何か御用でございますか」
「今お前さんは、病人を抱えていると言いなすったな、病人をつれてどこへ行くんだい」「へい、あの、お医者様のところまで……」
「お医者様? お医者様ならここにいる、ここにいる」
「へえ……」
「お医者様ならここに一人いるよ、ごく安いのが一人いるよ」
まだまだ先生も、決して酔が醒《さ》めてはいないのでした。
小男を背中へ引っかけた老人は、暗い中から透《すか》して見ると、なるほどその人は茶筅頭《ちゃせんあたま》をして、お医者さんの恰好《かっこう》をしているから、
「あなた様はお医者様でございますか」
「こう見えても医者は医者だよ、医者は医者だが薬箱持たぬ」
医者には違いないらしいが酔っていることは確かでありました。酔っていてもなんでも医者でありさえすれば、急病人にとっては渡りに舟であります。行きかけた老人は、幸いここで見てもらおうか、どうしようかと暫らく思案の体《てい》であったが、すぐに立戻って、
「急病人でございますが、ちょっと見ていただきたいもので」
「おっと承知、さあ、病人をここへ出したり出したり」
通りかけた老人も初めはなんだか薄気味悪く思ったようでしたが、道庵先生が至って気軽でその上に酔っていると見たものですから、安心したものと見えて、背にかけた小男をそこへ卸《おろ》します。
「何だい、病気は」
「へえ……あの、癲癇《てんかん》でございます」
「癲癇? どれどれ、おや、まだ子供だな、いやそうでもない、大人かな、そうでもない、年寄みたようでもある、おかしな野郎だな」
道庵先生は、裸体《はだか》で気絶している小男の身体に眼を擦《す》りつけて一通り見て、
「冗談《じょうだん》じゃねえ、こんな癲癇があるものかい、これは打身《うちみ》だ」
「ええ……」
「高いところから落っこったんだい、それもちっとやそっと高いところから落ちたんじゃねえ。野郎、喧嘩をしたな、喧嘩をして簀捲《すま》きにされて高いところから突き落されたんだ、これここに縄のあとがある、縄でギューギュー引括《ひっくく》られて突き落されたんだ、人をばかにしていやがる」
「先生、それに違いありません、どうかお静かに願います」
「お静かに? よし、それでは静かにしてやる」
道庵先生は、わざと段違いの低い声をする。
「まだ脈はございましょうか、見込はございましょうか」
身体《からだ》を一通り撫でてみた道庵先生が、
「ある!」
「ありますか」
「生きる!」
「ほんとに生き返りますか」
「大丈夫!」
「助かりますか」
「助かる!」
「どうか助けてやっておくんなさいまし」
老人は意気込む。
「あたりまえの野郎なら、助かりっこのねえところだが、この野郎のは助かるように出来ている」
「へえ」
「息を吹き返させるのは雑作《ぞうさ》はねえが、その前に痛みどころを繕《つくろ》っておかねえと、息を吹き返してからかえって苦しがる」
「へえ」
「まず肩胛骨《かたぼね》が外《はず》れている、それで左の手がブラブラだ」
「へえ」
「頸椎《くびのほね》には異状がない」
「へえ」
「胸脇《むねわき》の骨が折れて肺へでも触《さわ》ろうものなら見込みはないが、そこにも異状がない」
「へえ」
「脳蓋《のうがい》といって頭の鉢を打《ぶ》ち割ればこれも望みはないが、幸いにその鉢の頭も無事だ」
頭の鉢というのを鉢の頭といってのけました。当人は気がつかないで澄ましていたが、傍《かたえ》の老人はこの場合にもおかしさを噛み殺さずにはいられませんでした。
「腰骨《こしぼね》にも横骨《よこぼね》にもこれまた異状はない、右の方の脛《すね》の骨が折れている」
「へえ」
「そのほか、身体中、処嫌《ところきら》わず打創《うちきず》かすり創だが、それらは大したことはない」
おかしなお医者さんだけれども、その診方《みかた》の親切なこと、そうして暗い中で、どこがどう、ここがこうということを掌《たなごころ》を指すように言ってみせるから、はじめは険呑《けんのん》がっていた老人が、そぞろに信頼の念を高めてしまいました。
「おい、お爺《とっ》さん、この人をこうして押えておいで」
道庵先生は小男を半分起して、そのブラリとした左の手を持って腋《わき》の下《した》へ指を当てがい、下の方へ締めつけると、ブラブラしていた手は忽ちもとのようにひっかかります。
懐中紙入を出すと、一|挺《ちょう》の剃刀《かみそり》のようなものを引き出して、それで身体のあちらこちらを一寸二寸ずつ、スーッスーッと切って廻る。
「お爺《とっ》さん、手拭を持っているかい、その手拭を河原へ行って濡《ぬ》らしておいで、絞《しぼ》らないでいいよ、それから、足へ捲く布《きれ》が欲しいな、その三尺で結構、ナニ、晒《さらし》を持って来たって、そんならなお結構」
道庵先生は折れた右足の脛《すね》を晒《さらし》で捲く、濡らして来た手拭を頭と顔へ捲いて肩井《たちかた》を揉《も》んで背を打つと、
「うーん」
「そうら生き返った」
「生き返りましたか」
「早く家へ連れて行って寝かしておけ、明日また俺が行ってやる」
「有難うございます、明日も来て下さいますか」
「行ってやるとも」
「有難うございます、大湊の船大工で与兵衛とお尋ねになれば直ぐおわかりになりますから」
「大湊の与兵衛……よし来た」
「それから先生、わたしがこうしてここで先生のお世話になったことはどうぞ御内分《ごないぶん》に。人に知られると困るんでございますから」
「安心しろよ」
道庵先生はまた堤《どて》の上へゴロリと寝てしまいました。
十九
お絹は、二見ヶ浦の海岸の清涯亭《せいがいてい》という宿の離れにつづいた四阿《あずまや》の中で、長いこと人を待っているのでありました。やがて、編笠を被《かぶ》って海岸伝いにやって来る一人の武士《さむらい》がありました。
武士は松林の中を歩んで来る、お絹は、それを迎えるように松林の中へ入る。武士というけれども、まだごく若い人のようであります。
「宇津木さん、ここよ」
若い武士は歩みをとどめて笠を傾《かた》げてこちらを見る。
「お前様は――」
「ええ、お松の仮親《かりおや》のわたくしでございます、さっきから待っておりました」
この武士は宇津木兵馬でありました。兵馬は呆《あき》れたような面《かお》をしてお絹を眺めたままで立っています。
お絹の方は、いっこう平気らしく、
「宇津木さん、さだめてまたかとお驚きなすったでしょう、けれどもね、今度は前とは違いますよ、前とは違って真剣にあなたにお話をして上げなければならないことがあるのですから」
「お前様は御身分柄にもないことをなさる、嗜《たしな》まっしゃるがようござるぞ」
兵馬は苦《にが》りきって、なおお絹の面を睨《にら》めていると、
「そんな悪戯《いたずら》をするつもりではありませんでしたけれども、ついあなたのお姿を見たものですから、こんなことになってしまって」
兵馬の真面目になって苦りきっているのが、この女にはかえって面白いことのように見えるらしく、
「この間、古市の町で、背の小さい男が竿を振り廻していた時、それへ槍をつけたのは宇津木さん、あなたでしょう、運悪くそれをわたしが見ちまったのですよ。珍らしいところで珍らしい人に会って、わたしはなんだかゾクゾクと懐《なつか》しくなってしまったものだから、あれからちゃんと、あなたの行方を突き止めていたんですよ、そうしてまたあの手紙を上げて、あなたをここまでお呼び申したのですよ。よく来て下さいましたね、ホホ」
自分が綱を引きさえすれば兵馬などはどうでもなるように、呑みきっている物の言いぶりでしたから兵馬は勃然《むっ》として、
「お暇《いとま》を申します」
袖を振って歩き出すと、
「そんなにお怒りなさるものじゃありませんよ、まさかわたしの名で手紙も出されませんから、七兵衛の名を借りてあなたをここまでお呼び申したのは、あなたからはお松やなんかの行方も聞きたいし、わたしからはぜひともあなたにお知らせ申したいことがありますから……」
兵馬はそんな言葉を耳にも入れず、さっさと行ってしまおうとすると、
「あの、宇津木さん、兵馬さん、島田先生は死にましたよ、あなたはそれを知ってますか」
この一語は兵馬を驚かさないわけにはゆきませんでした。
「ナニ、島田先生が亡《な》くなられた?」
ズカズカと立戻ってしまいました。
「ソレごらんなさい?」
「島田先生が亡くなられたというのは、そりゃ真実《まこと》か」
「どうですか」
「そりゃ偽《いつわ》りだ、出立の時まであの通り壮健でござった先生が……」
「偽りなら偽りでようござんす、御信用のない者にお話をしたって詰《つま》りませんから」
「そんなはずはない、嘘だ、偽りだ」
兵馬はそれを言い消してみたけれども、決して心が安んじたわけではありませんでした。まだ老病で死なれる歳ではない、また苟且《かりそめ》の病に命を取られるような脆《もろ》い鍛錬のお方でもない、いわんや刀刃《とうじん》の難によって
前へ
次へ
全15ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング