命を殞《おと》すことのあり得べきお方ではない、もし先生が死なれたとすれば、病難、剣難のほかの、人間の手ではどうしても防ぎきれない天災によって殺されたと思うことのほかには想像が届かないのでありました。
「それは偽り、嘘にきまっている」
「あなたという人は、思いのほか不人情なお方ですねえ、現在自分のお師匠様が亡くなられたのにそれも知らず、せっかくそれを知らして上げようとするのをお耳にも入れず、それで武士道とやらが立ちますならば御勝手になさいまし……わたしは人柄がこんなで身を持ち崩してしまったから、真剣に言っても浮気に取られるのが口惜《くや》しい、わたしだって時と場合によれば、ずいぶんこれで涙脆《なみだもろ》いことがありますのよ。あの御徒町《おかちまち》の島田虎之助先生とも言われるお方が、人手にかかってお果てなさるとは……」
「ナニ、人手にかかって?」
「そのお話を聞いた時は、わたしのようなものでも涙がこぼれましたねえ、あの先生がまあ……」
「島田先生が人手にかかって……いよいよそれは偽りじゃ、嘘じゃ、人手にかかって亡くなられる、そのようなはずがない、余人ならば知らぬこと、島田先生が人手にかかって――そんなこと、そんなことのあるべきはずがない、天地が逆《さか》さになったとて」
 兵馬の舌がおのずから縺《もつ》れる。
「それほどわたしの言うことを御信用なさらないのなら、それでようございます、もう何も申し上げますまい。なるほど、島田先生は人手にかかるお方ではない、今の世に尋常であの先生を手にかけるような手利《てきき》はないにきまっている、それはあなたのおっしゃるまでもないこと、誰でも知っていますけれど、なにも刃物ばかりが人手ではなし……」
「そんならどうして先生が」
「毒ですよ、島田虎之助先生は毒を盛られておなくなりになりました」
「毒?」
 兵馬の渾身《こんしん》の血が逆流するかと見えました。
「それだけお話し申し上げたら、もうわたしの役目も済みました、それではこれでお暇を致しましょう」
「ま、待って、もう暫く」
 攻守勢いを異にしてしまい、兵馬はお絹の袖を捉《とら》えてはなさないのでありました。
「わたしのお呼立てしたことが、真剣でしたことか浮気でしたことか、それがおわかりになれば、わたしはもうお暇を致します」
「よく教えて下された、嘘《うそ》か真《まこと》か、そのような疑いを申していられることではない、お礼を申し上げまする」
 兵馬の眼から涙が落ちる。
「いいえ、お礼では痛み入ります。ああ、これでわたしの心持が届いて嬉しい」
「どうか御存じならば、もう少し詳しくそのことをお話し下さらぬか」
「知っているだけは、お話し申しましょうとも。けれども、こんなところではお話をしにくいから、あれへ参りましょう、あの清涯亭《せいがいてい》という宿、あそこに申し付けてありますから、静かなところで、ゆっくりお話し申し上げたいと思います」
「いや、それは……」
 兵馬はそれを躊躇《ちゅうちょ》しました。

 ほどなく兵馬の姿は大湊の町の船着場《ふなつきば》へ現われました。あの場ではお絹を怒らせて袖を振り切ってここへ来てしまいました。
「兵馬さん」
 お松は船の仕事着ではなく小綺麗《こぎれい》の身扮《みなり》をして、船着場の茶屋に待っています。
「今日はどちらへおいでになりました」
「二見の方へ」
「藪《やぶ》の中やなんかをお通りなさったらしい、こんなに草の実がついておりまする」
 お松は兵馬の袴《はかま》の裾《すそ》についた草の実や塵《ちり》を払ってやる。
「松林の中を無暗《むやみ》に歩いたものだから、ずいぶん息も切れました」
 兵馬は腰掛に休んで茶を飲む。
「あ、それからお松、今日はまた珍らしい人に会ったぞ」
「珍らしい人とおっしゃるのは?」
「お前の親類じゃ、当ててみるがよい」
「わたしの親類と申しましても……」
 お松にも親類の人もある、世話になった人もあるけれど、それらの記憶を呼び起すとあまり好い心持はしないのでした。
「それはお前にとっては怖《こわ》い人ではない、どちらかと言えば懐《なつか》しい人だ、懐しい人だろうけれど、油断はできない人だ」
 兵馬はわざと廻りくどく言ってみせると、
「まあ、誰でしょう、わたしの親類でそんな人――もし本郷の伯母さんでは……」
 本郷の伯母さんという人は、お松を島原へ売った人、不人情で慾が深くて、そのくせ口前《くちまえ》のよい人。
「いや、そんな人ではない。言ってみようか、それは湯島妻恋坂のあの花のお師匠さんじゃ」
「まあ、お師匠さんに?」
 お松は、絶えて久しい妻恋坂のお師匠さんのことを兵馬の口から聞いて、そぞろに昔のことが思われてたまりません。この時、町の方からがやがやと噪《さわ》がしい人声、
「いや、与兵衛さん、御苦労御苦労、もうここでよろしい」
 それは仙公を連れて、船大工の与兵衛に送られた長者町の道庵先生でしたから、兵馬も驚いたが、お松の方がいっそう意外な感じがして、直ぐに呼びかけようとしていますと、道庵先生はお松の方には気がつかず、与兵衛に向って、
「もうここでよろしいから帰ってくれ給え。うむ、もうどちらも大丈夫、心配することはない。野郎の方は少々|跛足《びっこ》になるかも知れないが、身体のところは間違いっこなし、薬は飲まなくっても放《ほ》っておけば自然に癒《なお》る」
「へえ、どうも有難うございます、ほんとにどうも、全く先生のおかげさまで」
 与兵衛は道庵の前へしきりに頭を下げる。
「それから、あの眼の方なあ、あの眼は野郎から見ると難物だからな。しかしまあ、ああしておけば十日や二十日は持つ、そのうち江戸へ出て来るというから、来たら拙者《わし》がところへよこしなさい」
「へえ、何から何まで有難うございます」
 与兵衛は繰返してお礼を言います。
 ここで道庵先生が、野郎の方は少々|跛足《びっこ》になると言ったのはもちろん米友のことで、眼の方は難物だというのはたぶん机竜之助のことでありましょう。
 さきの晩、与兵衛が伝馬で若山丸へ頼みに行ったのはお玉一人であって、竜之助は、やはり与兵衛の家に隠されているものと見なければなりません。
 道庵も江戸へ帰るものと見えて、すっかり旅装束《たびしょうぞく》になっていました。その時にお松が、
「先生、道庵先生」
「おやおや」
「いつぞや、先生のお世話になりました江戸の本郷の……」
「ああ、そうであったか、それはそれは。やはりお前さんもお伊勢参りかな」
「いいえ……」
「道庵先生」
 今度は兵馬が呼びかける。
 あちらからも道庵、こちらからも道庵で、先生めんくらってしまい、
「おそろしく道庵の売れのいい日だ。お前さんはどなたでしたかね」
「浪士に追われて、先生のお宅へ走り込んだことがありました、その節はえらいお世話になりました」
「そんなこともあったけかな……お前さんもなにかね、伊勢参りかね」
「いいえ違います、拙者は別に用向があって上方《かみがた》から――して先生はこれからどちらへ」
「拙老《わし》は伊勢参りの帰りじゃ、この与兵衛さんという人の家にお世話になってな、せっかくの好意だから、舟で桑名まで送って貰って、それから宮へ行こうというのだ、お前さんも江戸へお帰りなら、一緒に舟で行こうではないか」
「私共は、あの大船に乗るようにきまっておりますから」
「左様でござるか。それでは舟の出るまで、ドレ一ぷく」

 道庵先生の一行は、与兵衛の仕立ててくれた舟で桑名から宮へ向う。
 兵馬とお松とお玉とを乗せた若山丸は、十六反の帆を揚げて大湊の浜を船出する。
 米友の身体《からだ》も道庵先生の力によって旧に復するし、机竜之助もまた計らずも道庵先生の力によって幾分か視力を回復したらしい。七兵衛はムク犬と一緒にどこへか駈けて行ってしまった。やくざ旗本を先へ帰して、ひとり残ったお絹も、そういつまで遊んでいられるものでないから帰りの仕度をする。これらの連中の心々はそれぞれ違うけれども、そのめざして行くところは、みんな東の空であります。



底本:「大菩薩峠2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
   1996(平成8)年2月15日第4刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月31日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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