ざいません」
 仙公は往来の人へしきりに言いわけをして、
「先生、こんなところへ寝込んじゃあ困りますねえ、なんとかして下さい、仙公をかわいそうだと思うなら起きてやって下さい、もし先生」
「ムニャムニャムニャ」

         十六

 二階で見ていた切髪の女、それは伝馬町の旗本神尾の先代の愛妾お絹であります。お絹はお松を養って、今の神尾の家へ奉公に出した妻恋坂のお花のお師匠《ししょう》さんであります。
 お絹は今、按摩《あんま》に肩を揉ませながら、
「按摩さん、あの間《あい》の山《やま》のお玉とやらの詮議《せんぎ》は、どうなりました」
「へえ、あの一件でございますか、あれはあなた、捉《つか》まりましてございます」
「エエ、捉まった? あの備前屋とやらで賊を働いた女の子が」
「いいえ、お玉の方はどこへ逃げたやら行方知れずでございますが、それと相棒《あいぼう》の米友《よねとも》という奴が大湊《おおみなと》の浜で捉まりましたそうでございます」
「米友というのは、このあいだ竿《さお》を振り廻して古市の町を荒した網受けの小さな男だね」
「エエ、そうでございます、それが大湊の浜辺へ海から泳ぎ着いたところを、隠れていた役人が大勢して、やっとのこと、生捕《いけど》ったそうでございます」
「それで、泥棒の罪は白状したのかね」
「ところが、剛情な奴で、お玉の行方も申し上げなければ、お玉に手引をさせて自分が盗んでいながら、自分の盗んだことは※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》にも白状をしないので、お奉行所でもてこずっているそうでございます」
「では、その米友という小男は、どうしても自分が盗まないと言うんだね」
「左様でございますとも、自分も盗みなんぞをした覚えはないし、お玉だって決して盗みをするような女ではないと、あべこべに啖呵《たんか》を切ってお役人たちをまくし立てているそうでございます」
「そうしてみると、ほんとにあの二人が盗《と》ったわけじゃないんだろう」
「なに、それはもう証拠が上っているんでございますから仕方がありません、お玉の家にお侍衆の印籠《いんろう》もあれば、それにあんなところにあるべきはずでない二十両というお金もあったんでございますから。ことによると二人がグルでやったのかも知れません、そうでなければ米友がお玉を隠し廻るはずがないのでございますからな」
「どうもその印籠やお金が女の子の家に転《ころ》がっていたというのは怪しいけれど、わたしはどうも、あの二人の仕事ではなかろうと思っている」
「大きに……この町でも二通りの説がございまして、お玉や米友は決して盗みをするようなやつらではないというものと、でも証拠が上っている以上はあいつらの仕事かも知れないとこう言っているのと、半々なのでございます」

 お絹の伊勢へ来たのは一人ではありませんでしたが、今は一人で残っているのでありました。その連れというのは、番町の神尾の邸へ集まる例の旗本の次男三男のやくざ者が五人、それにお絹ともに女も三四人まじっていたのでありました。最初の晩、備前屋でお玉を呼んで間の山節を聞いた若い侍たちというのはそれらの連中で、そこですっかり持物を盗られてしまったというのもそれらの連中でした。お絹の一人だけ後に残った理由としては、この盗難の跡始末を見届けて行きたいということが一つでありましょう。
 按摩が帰ると薄化粧をして、身なりを念入りにととのえた、お絹のあだっぽい被布《ひふ》の姿はこの宿屋から出て、酔っぱらいのお医者様が来たら部屋へ通して酒を飲ませておくように宿へは言置きをして、自分は直ぐ戻るような面をしてどこへか出かけて行きました。

         十七

 噂の通り米友は大湊の浜でつかまってしまいました。
 竿を持たせてこそ米友だけれど、素手《すで》で水の中を潜《くぐ》って来たところを折重なって押えられたのだから、めざましい抵抗も試むることができないで縄にかかってしまいました。
 いろいろに調べられたけれどもついに白状しません。白状すべきことがないから白状しないのを、それを剛情我慢と憎《にく》まれて、よけいに苛《いじ》められるものですから、米友は意地になって役人をてこずらせてしまいました。
 お玉の家にあった印籠と二十両の金とがただ一つの証拠となって、それについて弁明すべきお玉がいないのだから、調方《しらべかた》の有利に解釈されて、米友にはいよいよ不利益な証拠になってしまいました。
 そこで米友は、ついに盗人《ぬすびと》と、それから町を騒がしたという二つの罪でお仕置《しおき》を受けることになりました。
 縄がキリキリと肉へ食い込んで、身体《からだ》の各部分が瓢箪《ひょうたん》のようになっている米友は、隠《かくれ》ヶ岡《おか》へ引っぱられて行く道で、
「米友が来る、米友が来る」
 宇治山田の町では、縛られて通る米友を見ようとて道の両側へ真黒に人立ちがしました。
 米友はこれから隠ヶ岡というのへ引っぱられ、お仕置に会うのであります。
 宇治山田の神領では血を見ることを忌《い》むから、刑罰の人を殺すには刃《やいば》を用いないで、隠ヶ岡から地獄谷というのへ突き落してしまうのが掟《おきて》でありました。
 引かれて行く米友を見物している町の人々のうちには、それを気味悪く思っているのもありました。たぶん冤罪《えんざい》であろうとひそかに同情を寄せているのもありました。それらの見物の中に一人、旅の姿をした男が笠を傾《かし》げて、人混みの中からとりわけて念を入れて米友の姿を見、それに対する評判を聞いているものがありました。その旅人は一夜に五十里を飛ぶ怪足の七兵衛に相違ありません。
「盗人《ぬすっと》でございますって?」
 七兵衛は自分に最も手近で、そうして最もよく話をしてくれそうな見物人の一人をつかまえてこう尋ねました。
「ええ、盗人でございます」
「何を盗んだので」
「お侍衆のお金と持物をそっくり[#「そっくり」に傍点]」
「どこでやりました」
「古市の備前屋というので」
「備前屋で?」
「お侍衆が音頭《おんど》を見物しておいでになる時に」
「あの男が?」
「左様」
「ほんとうに、あの男がやったのでございますかね」
「証拠があるんでございます」
「その証拠というのは?」
「梨子地《なしじ》の印籠に二十両の金」
「はてな」
「あいつのほかに相手が一人あるんでございます」
「相手というのは?」
「それは女でございますよ」
「女?」
「間の山へ出ていたお玉という女」
「へえ、そりゃ……」
「それで女の方は捉《つか》まらず、あいつだけが捉まったので」
「それで、なんでございますか、もう白状したのでございますか」
「剛情者ですから白状しないんでございます、けれども証拠がありますから」
「それで、どうなるんでございます」
「これからお仕置になるんでございます」
「お仕置に?」
「隠ヶ岡というのへ連れて行って、あれから下へ突き落すのでございます」
「は――て」
「こちらは御神領でございますからお仕置にも血を見せないようにして、それで隠ヶ岡から下へ突き落すのでございます」
「は――て」
 七兵衛は過ぎて行く米友の後ろ影を伸び上って見ていましたが、
「そいつは困ったことが出来た」
「何でございます」
「いえナニ、白状しないものをお仕置にかけて、もし本当の盗人が出た時には困りましょうなあ」
「それは困りましょうなあ」
「なんですか、その隠ヶ岡のお仕置場というのは誰でも見せてくれますか」
「山の下までは行けますがね、お仕置場のところへは入れませんや」
「へえ」
「しかし、山の下を廻って行けば行けないことはござんせんがね、そこは昼もお化けの出る古池で、人間の骨がゾクゾクしていますから、とても行かれませんや」
「左様でございますかね」
「それからその隠ヶ岡の下では、拝田村の芸人がたくさん集まって、あの男の命乞いをするといって騒いでいるそうでございますが、もうこうなってはお取上げになりますまいよ」
「左様でございますかね」
「あいつも根は正直者なんですが、ひょいとした出来心であんなことをしてしまったのでしょう、かわいそうといえばかわいそうですよ」
「それは気の毒なことをしました、どうも大きに有難う」
 七兵衛はこれだけの話を聞いて、なんと思ったか、来かかった道を逆に帰って、米友のあとを追うて、見え隠れにどこまでもついて行き、
「こいつには困った、まだまだ俺もここいらで年貢《ねんぐ》を納めたくはねえのだが……」
 七兵衛がこうして隠ヶ岡の下まで来ると、不意に一頭の猛犬が現われて烈しく吠えかかりました。
「叱《し》ッ、叱ッ」
 石を拾って打とうとするとその手許《てもと》へ犬が飛んで来ます。
 ムク犬は、どこをどうして来たか、ゲッソリと痩《や》せていました。飛びかかる足許さえ危ないくらいに痩せていましたけれども、猛犬はやはり猛犬でありました。
「叱ッ、叱ッ」
 七兵衛は先を急ぐことがあるのであります。落ちていた竹の棒を拾って一打ちと振りかぶると、犬はその手へスーッと飛んで来ました。あぶない、その手を渡って来て肩先へ噛みついた――七兵衛が少しく身をかわしたから、ムクの歯は七兵衛の肉へは透《とお》らないで、七兵衛の合羽《かっぱ》の上を食い破ってしまいました。
「こん畜生、狂犬《やまいぬ》だな」
 七兵衛は合羽へ食いついた犬の首を抱えるようにして、力任せに後ろへ取って捨てる、痩せて弱っていた猛犬は七兵衛に後ろへ取って捨てられて※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れたが、クルリと起き上って、二三歩退いて両足を前に合せて、そうしてじっと七兵衛の面《かお》を睨んでウォーと唸りつけていました。
 その形相《ぎょうそう》を見て七兵衛は、この犬が並一通りの狂犬ではないことを知りました。
「ムクだ、ムクだ、ムクが出たぞ、どこから出て来たのだろう」
 早くも土地の人が騒ぎ立てました。
 先日、古市の町を騒がしたムク犬は、あれっきりどこへ行ったか行方知れずになってしまったのを、ここで偶然に姿を現して、また土地の人を騒がせました。
「どこにいたんだろう、あの犬はありゃ、尾上山《おべやま》の後ろに隠れていたんだぜ」
「痩せてるな、もとは熊のように肥《ふと》っていたが今は狼みたようだ」
「あの旅人は、ありゃ何だ、見慣れない人だが、気の毒だ、お役所へ沙汰をしようじゃないか、あん畜生はホントに狂犬《やまいぬ》になったんで通る人の見さかいもなく、ああして噛みつくんだ、うっかり傍へ寄ると危ねえ、早くお役所へ沙汰をしようじゃないか」
 お役所、お役人という声を聞くと、
「エエ、めんどくさい」
 七兵衛は急に焦《じ》れったがって、飛びかかって来た犬の眉間《みけん》のところを、拳《こぶし》を固めてガンと打ち据えて、自分は身を飜して一散にもと来た方へ走《は》せ出しました。七兵衛に打たれて後ろへ飛び退いたムクは、起き直るや、驀然《まっしぐら》に七兵衛の跡を逐《お》いかけます。
 気の毒な米友は、この騒ぎのうちに隠ヶ岡から地獄谷へ突き落されてしまい、役人も非人《ひにん》も刑の執行を済まして、今ゾロゾロと山を下って帰って来るところであります。

         十八

 道庵先生は宿屋をうろつき出してしまいました。どうして、先生の気象《きしょう》でじっとしていられるものではありません。
 それにお絹の宿屋で上等の酒を飲ませられたものだから、有頂天《うちょうてん》になってしまって、ひょろひょろと宿を出かけました。
 ただ好い心持で歩くのですから、どこへどう行くかわかったものではありません。そのうちに人家を離れて、河沿いの堤《どて》みたようなところへ来ると、グンニャリとそこへ倒れてしまいました。
 倒れたきりで仰向けに臥《ね》て酔眼《すいがん》をトロリと見開いて見ると、夜気|爽《さわや》かにして洗うが如きうちに、星斗《せいと》闌干《らんかん》として天に満つるの有様ですから、道庵先生、ズッと気象が大きく
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