ない」
与兵衛は、ずんずんとお玉の手を引いて行く。
お玉の怖いというのは、ただ場所柄《ばしょがら》が怖いというだけではなくて、なんだかしんしん[#「しんしん」に傍点]といやな気持になってゆくのでありました。
「誰か後をついて来るような足音がします」
「そんなことがあるものか、さあここだ」
今、与兵衛の扉《と》をあける音で気がつくと、パッと燈火《ともしび》の光、かなりに広い一間。
その中に朦朧《もうろう》として人が一人います。
十三
微《かす》かな燈火《ともしび》の光に朦朧として人が一人います。恐怖のうちにお玉の眼に映じたものは、その人が水色無地《みずいろむじ》の着物を着て、坐って俯向《うつむ》きになっていたから、蓬々《ぼうぼう》と生えた月代《さかやき》だけが正面に見えて、面《かお》は更に見えませんでした。
俯向いている下に耳盥《みみだらい》が一つあって、俯向いているのはその人が今、巾《きれ》でもって面の一部分を洗っているのであることを知ったのは、やっと中へ入っていっそう気を鎮めた後のことであります。
「小島様、お使の衆を連れて参りました」
「それは御苦
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