の音《おと》一つ立たないで、阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》で鳴く千鳥が遠音《とおね》に聞こえるくらいのものでありました。
「困ったことだわい」
印伝革《いんでんがわ》のかます[#「かます」に傍点]から煙草を詰め替える与兵衛は船大工の親方、年はとっているが眼は光る。
「今晩は」
裏口でおとなう声。
「へーい」
内で与兵衛が返事。
「あの、大湊の与兵衛さんとおっしゃるのはこちら様で……」
「与兵衛はうちだが、お前さんは」
「古市から参りましたが」
「古市から?」
与兵衛は立たないで耳を傾けて、
「古市から? 古市のどちら様からおいでなすった」
「あの、備前屋から」
「備前屋さんから?」
与兵衛はこの時ようやく立って、
「どうも女衆の声のようだが」
戸をあけると、手拭で面を包んだ女、逃げ込むようにして家の中へ入って、
「こちら様に小島さんとおっしゃるお方がおいででございましょうか」
「小島……してお前さんは何しにおいでなすった」
「その小島さんというお方がいらっしゃるならば、その方へお手紙を内緒《ないしょ》で頼まれて参りました」
「ああ、そうでござんしたか」
「これがそのお手紙でござ
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