える薬の行商|体《てい》の人でありまして、その男が木戸口からお玉のいる方へ進んで来ますと、いま竹藪から走り出したムクはその人に向って、噛みつかんばかりに猛然として迫って行きます。
 行商体の男は、タジタジとしましたけれども、犬をなだめるようにして、お玉のいる方へ近寄って来ようとします。それをムクは近寄らせまいと肉薄しているようにも見えます。さすがにまだ噛みつきも、食いつきもしませんけれど、ムクの気勢を見れば、絶えて久しく現われなかった狼を追う時の眼の色が現われておりますから、
「ムク、人様を吠えてはいけませんよ」
 お玉はこっちで犬を制したけれども、ムクは決して柔順になりませんでした。その男が一歩進めば一歩進むほど、ムクの気勢が荒くなるのでありました。
 いかなる人が、どんな異様な風采《ふうさい》をして来ようとも、ムクは眠れるものの如くして、嘗《かつ》てそれに吠えついたことはないのに、今は全くそれと違いますから、
「この犬は気が違ったのではないかしら」
 お玉も来る人に気の毒でたまらない。洪水《こうずい》の中をやっと泳ぐようにして行商体の男は、ムク犬の鋭い威勢を避けながら、お玉のいると
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