無暗《むやみ》に歩いたものだから、ずいぶん息も切れました」
兵馬は腰掛に休んで茶を飲む。
「あ、それからお松、今日はまた珍らしい人に会ったぞ」
「珍らしい人とおっしゃるのは?」
「お前の親類じゃ、当ててみるがよい」
「わたしの親類と申しましても……」
お松にも親類の人もある、世話になった人もあるけれど、それらの記憶を呼び起すとあまり好い心持はしないのでした。
「それはお前にとっては怖《こわ》い人ではない、どちらかと言えば懐《なつか》しい人だ、懐しい人だろうけれど、油断はできない人だ」
兵馬はわざと廻りくどく言ってみせると、
「まあ、誰でしょう、わたしの親類でそんな人――もし本郷の伯母さんでは……」
本郷の伯母さんという人は、お松を島原へ売った人、不人情で慾が深くて、そのくせ口前《くちまえ》のよい人。
「いや、そんな人ではない。言ってみようか、それは湯島妻恋坂のあの花のお師匠さんじゃ」
「まあ、お師匠さんに?」
お松は、絶えて久しい妻恋坂のお師匠さんのことを兵馬の口から聞いて、そぞろに昔のことが思われてたまりません。この時、町の方からがやがやと噪《さわ》がしい人声、
「いや、与
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