疑いを申していられることではない、お礼を申し上げまする」
 兵馬の眼から涙が落ちる。
「いいえ、お礼では痛み入ります。ああ、これでわたしの心持が届いて嬉しい」
「どうか御存じならば、もう少し詳しくそのことをお話し下さらぬか」
「知っているだけは、お話し申しましょうとも。けれども、こんなところではお話をしにくいから、あれへ参りましょう、あの清涯亭《せいがいてい》という宿、あそこに申し付けてありますから、静かなところで、ゆっくりお話し申し上げたいと思います」
「いや、それは……」
 兵馬はそれを躊躇《ちゅうちょ》しました。

 ほどなく兵馬の姿は大湊の町の船着場《ふなつきば》へ現われました。あの場ではお絹を怒らせて袖を振り切ってここへ来てしまいました。
「兵馬さん」
 お松は船の仕事着ではなく小綺麗《こぎれい》の身扮《みなり》をして、船着場の茶屋に待っています。
「今日はどちらへおいでになりました」
「二見の方へ」
「藪《やぶ》の中やなんかをお通りなさったらしい、こんなに草の実がついておりまする」
 お松は兵馬の袴《はかま》の裾《すそ》についた草の実や塵《ちり》を払ってやる。
「松林の中を
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