ければならないと思いましたのに、そう思ってここまで参りましたのに……」
 お玉は情がたかぶって着物の襟《えり》を食い裂きました。
 なにも礼を言われたいために危険を冒《おか》して来たのではないけれども、人の情に対する感謝の美しい一雫《ひとしずく》を見たいものと思わないではなかったのに、この人は、情というものも涙というものも涸《か》れ切った人なのか、そうでなければ天性そういうものを持って生れなかった人なのか。お玉は口惜しくって口惜しくって涙をこぼしてしまいました。
「こんな薄情なお方と知ったら、手紙なんぞを持って来るのではなかった」
 神崎沖《こうざきおき》から押寄せる潮が二見ヶ浦を崩れて、今ここの入江に入って来たらしい。蓑《みの》を鳴らすような音が聞えます。
 浪の音が、上から落ちて来るように颯《さっ》と響くと、一|穂《すい》の燈火《ともしび》がゆらゆらと揺れます。お玉はぶるぶると身震いをしました。
 あんまり張りが強くなって、初対面の人を捉《つか》まえて薄情呼ばわりをしてしまったことを悔いるような気になって、今ゆらゆらと揺れた火影《ほかげ》からその人の横顔を見ると、その人はべつだん腹
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