の曲者《くせもの》に立ち向ったが、肝腎《かんじん》の主人の刀を持った金輪勇は、肝《きも》を潰《つぶ》してやみくもに逃げてしまう。
兇漢のうちの一人、すぐれて長い刀を持ったのが、吉村をほかの二人に任せて、姉小路少将をめがけて一文字に斬りかかる。
抜き合わすべき刀は金輪が持って逃げてしまった。
「小癪《こしゃく》な!」
姉小路少将は、持っていた中啓《ちゅうけい》で受け止めたけれども、それは何の効《ききめ》もない、横鬢《よこびん》を一太刀なぐられて血は満面に迸《ほとばし》る。二の太刀は胸を横に、充分にやられた。それでも豪気の少将は屈しなかった。
「慮外者《りょがいもの》めが!」
兇漢の手元を押えて、その刀を奪い取ってしまった。その勢いの烈しさにさすがの刺客《しかく》が、刀を取り返そうともせず、鞘までも落したままで一目散《いちもくさん》に逃げてしまった。
吉村に向った二人も、つづいて逃げ去ってしまった。
姉小路少将は重傷《おもで》に屈せず、奪った刀を杖について、吉村に介抱されながら邸へ戻って来たが、玄関に上りかけて、
「無念!」
と一声言ったきりで倒れて息が絶えた。生年僅か二十八歳(或いは三十歳)であったという。
この姉小路という人は、体質は弱い人であったけれども、十九ぐらいの時に夜中《やちゅう》忍び歩いて、関白以下の無気力の公卿を殺そうという計画を立てたほどの気象《きしょう》の荒っぽい人であった。東久世《ひがしくぜ》伯は、こんなことを言う、「そうさ、我々の仲間では、あれがいちばん豪《えら》かった、岩倉とどちらであろうか、ともかくも岩倉と匹敵《ひってき》する男であった、岩倉よりも胆力があって圧《おし》が強い方であった、しかし気質と議論が違うからとうてい両立はできない、岩倉をやっつけるか、やっつけられるか、どちらかであろう」と言われましたが、まことに惜しいことをしたものです。
またその頃の蔭口《かげぐち》に、「三条公は白豆、姉小路卿は黒豆」という言葉もあった。
これほどの人が何故に殺されたか、その詮議《せんぎ》よりもまず何者が殺したかという詮議であったが、そこに残された刀が物を言う。
その刀は縁頭《ふちがしら》が鉄の鎖《くさり》で、そこに「田中新兵衛」と持主の名前が明瞭に刻《きざ》んであった。中身は主水正正清《もんどのしょうまさきよ》、拵《こしら》えはすべて薩州風、落ちていた鞘までが薩摩出来に違いないのであった。
「田中新兵衛――」
薩摩の田中新兵衛とは何者とたずぬるまでもなく、その時分、評判者の斬り手である、人を斬りたくって斬りたくってたまらない男である。島田左近を斬ったのもこの男だと言われているのである。そうして、当時有名な志士の間にも交際がある、現に四五日前も、姉小路少将の家へ来て何か意見を述べて行ったことがあるという。
「田中を捉《つか》まえろ」
田中は平気で薩州の邸内に寝ていた。呼び出してみると、
「左様なことは存ぜぬ」
頑として、首を横に振る。
「存ぜぬとは卑怯《ひきょう》であろう」
役人は詰《なじ》る。
「卑怯とは何だ、知らぬ者は知らぬ、存ぜぬことは存ぜぬ」
新兵衛は役人をハネ返した。
「証拠が物を言うぞ、隠し立てをするな」
役人は突っ込む。新兵衛は沸然《むつ》として、
「田中新兵衛は人を斬って、刀を捨てて逃げるような男ではござらん」
あくまで手剛《てごわ》いので、役人は下役を呼んで持って来さしたのが、例の捨てて逃げた刀である。
「新兵衛、この刀に覚えがあるか」
役人は、それ見たかと言わぬばかり。
「拝見」
新兵衛は、その刀をとって見た。自分の刀である。
「さあ、どうじゃ、その刀は誰の刀であるか」
新兵衛はじっと見ていたが、
「これは拙者の差料《さしりょう》に相違ない」
「そうであろう」
役人は勝利である。
ここに至って、潔《いさぎよ》き新兵衛の白状ぶりを期待していると、新兵衛はその刀を取り直すが早いか我が脇腹《わきばら》へ突き立てた。
「や!」
並み居る役人も番卒も、一同に仰天《ぎょうてん》した。支えに行く間に、もう新兵衛はキリキリと引き廻して咽喉笛《のどぶえ》をかき切り見事な切腹を遂げてしまった。
あまりのことに一同のあいた口がふさがらなかった。
新兵衛は刀はたしかに自分の物と承認したけれど、姉小路を殺したのは俺だと白状はしなかった。これがために、疑問はいつまでも残された。
竜之助の次の間でも問題になったが、一説には、その前日、新兵衛は三本木あたりの料理屋で飲んでいるうちに、何物にか刀を摺《す》りかえられたという。武士が差料《さしりょう》を摺りかえられたことは話にならぬ、さすがの田中がその当座、悄気《しょげ》返《かえ》っていたという。
とにかく、姉小路を殺したものは何者であるかは今日でもわからない、おそらく新兵衛ではあるまいということ。
竜之助のいる次の間へ多くの人が入って来たので、田中新兵衛の噂は立消えになったが、
「女中、あの襖《ふすま》をはずしてくれ」
彼等の集まったのは、竜之助の隣りの十畳の間を二つ打抜いたので、竜之助のはそれにつづいた六畳一間であったが、いま向うでその襖をはずせと言ったのは、集まった浪人の中の重立《おもだ》った者らしい。
「あの、お隣りにはお客様がおいででござりまする」
「ナニ、隣りに客がいる?その客というのは何者だ」
「はい、やはりお武家様でございます」
「ふむ、武士か。幾人いる」
「お一人でございます」
「一人――しからばなんとか都合《つごう》をして、そのお客をほかの座敷へやってくれ」
「はい……」
「我々共が、この三間を通して借受ける、隣りのお客に体《てい》よく申して立退かしてくれ」
「お話を致してみましょう」
女中は心なくお受けをして引き下った様子。浪人連は、
「暑かったな」
「なかなか暑い」
「風呂に入れ」
「今、酒井と那須が入っている」
「そうか、氷を食え」
氷を噛《かじ》る音ガリガリ。
「いま聞けば、このつい[#「つい」に傍点]先が鍵屋の辻といって、荒木又右衛門が武勇を現わしたところじゃそうな」
「うむうむ、それをいま知ったか」
「面白い、荒木の三十六番斬りなんというのは、よく張扇《はりおうぎ》で聞くが、いつも壮快じゃ、荒木の前に荒木なく、荒木の後に荒木なしと言ってな」
「山陽の作った詩に、こんなのがある、ひとつ歌って聞かそうか」
「謹聴」
詩を吟ずることを得意にする者が、興に乗じて歌おうという、一同はそれを謹聴するものらしい。
[#ここから2字下げ]
伊賀城頭|西閭門《せいりょもん》、
復讐《ふくしう》跡あり恍《くわう》として血痕《けっこん》、
仇人《きうじん》、馬に騎《の》り魚貫《ぎょくわん》して過ぐ、
挺刀一呼《ていたういっこ》、渠《かれ》が魂を奪ふ、
姉夫慷慨《しふかうがい》にして兼ねて義に従ふ、
脊令原《せきれいげん》寒うして同じく冤《ゑん》を雪《そそ》ぐ、
一水《いっすい》西に渡ればこれ※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]原《たうげん》、
当時投宿の館《やかた》はなほ存す、
吾れ来《きた》つて燈《とう》を挑《かか》げて往昔を思ふ、
想《おも》ひ見る淬刃暁暾《さいじんげうとん》を候《うかが》ふ、
嗟哉《ああ》、士風なほ薄夫《はくふ》をして敦《とん》ならしむ、
寛永の俗、いま誰と論ぜん。
[#ここで字下げ終わり]
詩は吟じ終って暫らくのあいだ静かである。それにしても、もう立退き命令が来そうなものじゃと、隣室《となり》の竜之助は心待ちにもなるが、なかなか来ない。
ちょっと、隔ての襖を細目にあけた者があったようだが、あけて直ぐに立て切り、
「まだいるわ、隣りに男が一人いる」
あけた男は、やや小声であったけれど竜之助にはよく聞える。
「まだいるか、女中め、なんとも言わん」
ハタハタと手が鳴る。
「お召しになりましたか」
忙《せわ》しげにやって来た女。
「これこれ女、ナゼさいぜん申しつけた通り、隣室へ申し入れん」
「はい、どうも相済みませぬ、つい忙しいものでございましたから」
「早速、申し入れろ」
「はい、ただいま……」
女中は、すぐに来るかと思うと、すぐには来ないでいったん下の座敷へ行ってしまったらしい。竜之助は袴でも取ろうかと思っているところへ、
「御免あそばせ」
例の女中が入って来て、
「旦那様、風呂をお召しになりましては」
「まだ入りたくない」
「あの、旦那様、お隣室《となり》が混み合いまして、まことにお喧《やかま》しゅうございましょう。あの、少し手狭《てぜま》ではございますが、あちらの四畳半が明いておりますから、御案内申しましょうか」
「ここでよろしい」
この室でよろしいとキッパリ言われたから女中は二の句が継げなかったが、やっと、
「それでも、ここは、あのお隣室のお客様が夜更けまでお話しになるとお困りでしょうから」
「いいや、賑《にぎや》かでかえってよい」
膠《にべ》もない言葉である。
「それでは、どうも……」
切出しが拙《まず》かったので、女中はヘトヘトになって言葉を濁《にご》して出てしまいました。
しばらくたつと、また隔ての襖が二寸ほど開いて、じっとこっちを見たのは眼の大きい面《かお》の色の赭黒《あかぐろ》い総髪《そうはつ》の男であったが、今度は篤《とく》と竜之助の面を見定めてから、また襖を締め切り、
「まだいるぞ」
「まだいる?」
また手がハタハタと烈しく鳴る。
「お召しになりましたのは、こちら様で……」
恐る恐るやって来たのは、以前の女中でなくて番頭。
「貴様は何だ」
「へえ、番頭でございます」
「さいぜんから、この隣室を明けておもらい申すように再三申しつけたところ、なんでそのように取計らわぬ」
「恐れ入りましてございます、では手前からもう一応」
番頭は非常に恐縮して、すぐその足で竜之助のところへやって来ました。
「御免を願いまする――」
「何用じゃ」
「どうも、混雑致しまして、行届き兼ねまする。時にお客様――甚だ申し兼ねた儀でござりまするが、このお部屋は、ちと喧《やかま》しゅうござりますので、どうか、あちらへお引移りを願いたいものでござりまして……」
「いや、ここでよろしい、かえって賑かでよい」
「へえ……」
番頭は思わず頭に手を置いた。
「それに致しましても、隣室の衆が、お気の荒いお方のように見えますから、もし間違いでもありましては……」
「いや、心配することはない」
「でも、もしやお間違いが出来ますると、あなた様のみならず手前共まで迷惑致しますから、どうぞお引移りを」
「こちらが黙って控えておれば間違いの起る筋《すじ》もなかろう、心配するな」
「でもござりましょうが……」
「ここでよろしいと申すに」
番頭は困《こう》じ果てた。この時、隔ての襖を荒っぽく引きあけて、
「御免」
案内もなく入り込んで来たのは、髻《もとどり》を高く結び上げて、小倉《こくら》の袴を穿いた逞《たくま》しい浪士であります。手には印籠鞘《いんろうざや》の長い刀を携《たずさ》えて、
「番頭どけ――」
竜之助の前へ※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]然《どっか》と坐って、
「初めて御意《ぎょい》得申す」
「何か用事でござるか」
「さきほどから再三、宿の人を以て申し入れる通り、我々はごらんの通りの多勢じゃ、お見受け申せば貴殿はお一人、どうかこの席を多勢の我々に譲っていただきたい」
「その儀ならばお断わり申す」
「ナニ、断わる?」
印籠鞘の武士は眼に角《かど》を立てて、
「女中や番頭どものかけ合いとは事変り、武士が頼みの一言じゃ、気をつけて挨拶を致せ」
竜之助は武士の方には取合わないで、番頭の方を見て、
「番頭殿、この気狂いを、あっちへ連れて行ってくれ」
印籠鞘は激昂《げっこう》して、
「気狂いとは何だ……気狂いとは聞捨てならん」
「まあまあ、そこのところをひとつ――どうかそういうわけでございますから旦那様、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》でどうもはや、どうか
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