お引移りを願いたいもので……」
 番頭はてんてこまいをはじめる。
「汝《おの》れは間諜《いぬ》じゃ、幕府の犬であろうな」
 印籠鞘の浪士は竜之助に詰め寄せる。
「やれやれ! やっつけろ!」
 いま開け放しておいた襖《ふすま》から七つ八つの、いずれも穏かならぬ面《かお》がさいぜんから現われて、この無作法《ぶさほう》な浪士の後援をつとめていたのがいま一斉《いっせい》に弥次《やじ》り出した。
 どこへ行っても、今頃は、こんな血《ち》の気《け》の多いのに打突《ぶっつ》かることが珍らしくない。いや、竜之助は、これよりもっともっと生命知《いのちし》らずの新撰組や、諸国の浪士の間に白刃《しらは》の林を潜《くぐ》って来た身だ。
 白い眼で、じっと見て、左手で植田丹後守から餞別《せんべつ》に貰った月山《がっさん》の一刀を引き寄せる。
 竜之助は、この刀を持ってから、まだ人を斬ったことはないのである。さりとはあまり物好きな、この連中を相手に喧嘩《けんか》を買ってみる気か知らん。
 浪士らは、一喝の下に嚇《おど》してくれようと威勢を見せたが、案外、手答えがなく、シンネリとして蒼白《あおじろ》い面に憤《いきどお》って沸くべき血の色さえも見えず、売りかけられた喧嘩なら、いくらでも買い込む気象を見せて、刀を引き寄せた竜之助の挙動を見て、かつは呆《あき》れかつは怒ったのであります。
「汝《おの》れは、生命《いのち》というものが惜しくないか!」
 印籠鞘の浪士は居合腰《いあいごし》になって刀を捻《ひね》ったのである。
「生命なんぞは惜しくない――」
 彼は月山の新刀を手にとると、この時むらむらとして無暗《むやみ》に人を斬りたくなった。
「いけません、いけません、どうかまあ、あなた様もお鎮《しず》まり下さい、こなた様もお控え下さい、手前共で迷惑を致します、ほかのお客様にも御迷惑になります、どうか、お抜きなさることは、御容赦《ごようしゃ》を願います、御容赦を願います」
 番頭は必死になって支えてみたけれども、もとよりその力には及ばない。
「宿を騒がしても気の毒じゃ、どうだ諸君、これより程遠からぬところに鍵屋《かぎや》の辻《つじ》というのがある、鍵屋の辻へ行こう、音に聞く荒木又右衛門が武勇を現わしたところじゃ、そこで一番、火の出る斬合いをやって、伊賀越えの供養《くよう》をしてみたいなあ」
 かの印籠鞘《いんろうざや》の武士は衆を顧みて腕をまくり立てる。
「結構、事の血祭りに幕府の間諜《いぬ》を斬れ、伊賀の上野とは幸先《さいさき》がよい、やい幕府の間諜、表へ出ろ、荒木が三十六番斬りの名所を見せてやる」
 彼等は竜之助を、その鍵屋の辻へ引張り出して斬ってしまおうと考えたらしい。まことに無意味な行きがかりに過ぎないけれども、竜之助はそれを拒《こば》むべき人ではなかった。
 この時、向うの室の床柱を背負って、さっきから少しも動かずに茫然《ぼうぜん》と事のなりゆきを見ていた小兵《こひょう》にして精悍《せいかん》、しかも左の眼のつぶれた男があったが、
「おのおの方、詰《つま》らんことをなさるな」
 小兵にして精悍な、左の眼のつぶれた右の浪士は、膝の上に絵図をひろげて眺めていながら、さいぜんからの騒ぎは、よそを吹く風のようにしていたが、この時はじめて頭を振向けてこう言った。
「あまりといえば無礼な奴」
「無礼は、こちらのこと」
「先生、これは間諜《いぬ》でござる、幕府の犬に違いござらぬ」
「なんにしても、おのおの方よりは少し強いようじゃ」
「宿を騒がすも気の毒ゆえ、鍵屋の辻へ引っぱり出して斬ってしまおうと存じます」
「あべこべに斬られてしまうぞ」
「何を! たかの知れたる間諜」
「フム、こっちで模様を見ていると、先方の方がよほど強い」
「左様なことはござりません、先生にも似合わんことをおっしゃる」
「強い、強い、先方が強い。この分で、鍵屋の辻へ行こうものなら瞬《またた》く間《ま》に、おのおの方が撫斬《なでぎ》りになる」
「これは先生のお言葉とも覚えん、さほどに我々を見縊《みくび》り給うか」
「とにかく引上げ給え、こちらの出様が悪い、かけ合いが礼儀でない」
 小兵にして精悍な、左の眼のつぶれた浪士と、他の浪士どもとの問答はこんなふうであります。味方をたしなめて敵の者を賞《ほ》めている。竜之助はその言葉つきの妙に落着いたのを聞いて、その何者であるかを訝《いぶか》っていたが、乱暴な浪士どもの気勢は、これですっかり折れてしまった。
「さて、明日は大和へ入って萩原《はぎわら》へ泊る、それから宇陀《うだ》の松山へ出ようか、初瀬《はつせ》へかかろうか」
 左の眼のつぶれた浪士は、また地図を拡げて、
「萩原から松山まで二里一町――松山から上市までが四里と十三町――これを初瀬の方へ廻ると榛原《はいばら》から一里十七町、三輪、桜井、八木へ出て南へ下る」
 里数を、あれからこれと数え立てられて一座の浪士は烟《けむ》に捲かれる。
「さあ、おのおの方、ここへ来て、地図をごらんなされ、那須氏には、ようこの道を御存じのはずじゃ、十津川《とつがわ》入《い》りには、いずれの道をとったがよいか」
「左様、十津川入りには……」
 いちばん先へ喧嘩に出たのが、畳の上に拡げた絵図面の方へ首を持って来て、
「初瀬から八木へかかるが道はようござるが、近頃は……」
「松山へ出た方が近うござるか」
「左様――」
 どうやら、この絵図一枚で喧嘩が納まりそうである。
 この左の眼のつぶれた人は、十津川天誅組《とつがわてんちゅうぐみ》の巨魁《きょかい》松本|奎堂《けいどう》であったことが後に知れる。

         二十

 お豊は、我を忘れて欄干《てすり》の上から下の往来を見下ろした時に、薬屋の前を総勢十人ほどの旅の武士が隊を成して通り過ぐるのを認めました。
「ああ、あの方はたしかに……」
 笠を深く被《かぶ》ってはいたけれど、お豊はその旅の武士の一隊の中に、竜之助のあることをたしかに認めたのであります。
 お豊は周章《あわて》て梯子段《はしごだん》を下り尽したけれども、かの十人ほどの武士の一隊のうちの一人も、店へ入って来た人影はありませんでした。店先に打ち水の空手桶をさげてぼんやり立っているのは女中一人。
「お光さん、今こちらへ、お客様がお見えになりましたでしょう」
「いいえ」
「それでは、ここを十人ばかりのお武家様がお通りになったでしょう」
「あ、お通りになりました」
「そして……どちらへお越しになりました」
「鳥居のわきを南の方へおいでになりました」
「まあ、そうでしたか。それでは違ったか知ら」
 お豊はそれから、もしやと植田丹後守の邸の前まで行ってみました。
 しかし、邸はいつもの通り穏かなもので、下男の久助が打ち水をしている。
「久助さん、久助さん」
「おや、お豊さんか」
「あの、ただいまお邸へお客様がありましたか」
「いや、さっき郡山《こおりやま》からのお使が一人見えたっきり、正午前《おひるまえ》のうちは武者修行が三人ほどおいでになりましたが、直ぐお帰りでした」
「ああ、そうでございましたか。あの、たったいま十人ほどのお武家が、こちらへお通りになりましたから、もしやお邸のお客様ではないかと思いまして」
「いや、そんなお客様はおいでがない、十人はさて措《お》き、一人もお見えになりませぬ」
「そうでございましたか」
 お豊はここにも言わん方なき失望でありました。
 川上へ雨が降ったので、初瀬川の水嵩《みずかさ》は増していました。河原の中程にあった地蔵堂は引き上げられて、やや離れた竹藪《たけやぶ》と仮橋《かりばし》の間に置かれてあったが、その藪へも水はひたひたと寄せているのでありました。
 お豊は仮橋から向うを見渡したけれど、桜井の町の燈火《あかり》が明るく見え、多武峰《とうのみね》が黒ずんでいるほかには人の影とては見えないのであります。
 淡月《うすづき》は三輪山の上を高く昇っているのに、河原はなんとなく暗い――涼しい風は颯《さっ》と吹いて来た。川波を逐《お》うて、蛍《ほたる》が淋しいもののようにゆらりゆらりと行く。
「ああ、わたしとしたことが、なんでこんなところまで来たのでしょう」
 幻影《まぼろし》を追うて夢の里を歩み、何かに引かれてここまで来たが、気がついてみると、お豊は自分ながら、なんでこんなところへ来たのかわかりませんでした。
 ここへ来ると気が抜けて、お豊は行くのもいや、帰るのもいやになりました。
 地蔵堂の傍の蛇籠《じゃかご》へ腰を掛けてしまいました。そうしてぼんやりと夜の河原をながめていました。頭はいろいろのことを考えて、いっぱいになっていました。
「お豊さん」
 地蔵堂のうしろから不意に人が出て来たので、我に返ります。
「お豊さん、わしは金蔵じゃ、驚きなさるな」
「まあ、金蔵さん――」
 迷うて来た――金蔵は、とうとう幽霊になって自分に取附いて来た。驚くなと言ってもこれは驚かずにはいられない、お豊は身の毛がよだって、体がすくんでしまいました。
「お豊さん、驚いちゃいけません、金蔵です、金蔵がこうして生き返って来たのですよ」
 藪蔭《やぶかげ》から出て来た金蔵は、糸楯《いとだて》を背に負って、小さな箱をすじかいに肩へかけて、旅商人|体《てい》に作っていました。
「さあ、そんなに驚いちゃいけませんというに。お化《ば》けじゃありませんよ、金蔵は生き返って来たのですよ、お前さんというものが思い切れないで、生《しょう》で帰って来たのですよ」
 ああ、生き返って来たのに違いない、幽霊でもお化けでもなんでもなく、生《しょう》のままで金蔵はここに立っている。
「金蔵さん、お前は助かりましたか」
 お豊は逃げることもできないので、やっとこう言ってみますと、
「ああ、助かりました。あの時、針ヶ別所の山の中で、鍛冶倉《かじくら》の奴にひどい目に遭《あ》って、首へ細引《ほそびき》を捲《ま》きつけられましたがな、わしはまた、鍛冶倉を山刀で無暗《むやみ》に突き立てて突き殺しましたよ。わしも一旦は縊《くび》り殺されたのですがね、しばらくすると息を吹き返しましたよ。誰か知らん、首に捲きつけた細引をといてくれた人があったのでね。やれ嬉《うれ》しやと小舎《こや》へ這《は》い込んで見ると、お豊さん、お前の姿は見えないや……」
 金蔵は中腰《ちゅうごし》になって、お豊の前で、あの時の物語をはじめます。
「見れば鍛冶倉の奴は傍で死んでいるし、それではお豊さん、お前が逃げる時に、わしの首から細引をといて行ってくれたのかと思った時は、わしは嬉しかったよ」
「あの、それは……」
「それだけでも、わしはお前さんの親切が嬉しくって、嬉しくって。あれからわしは谷を這い廻ってやっと里へ出て、惣太《そうた》が家へ二日ばかりかくまってもらって、それから身体《からだ》もすっかり快《よ》くなったからね、わしはお前、こんなふうに薬売りの真似をしてね……どこへ行くものか、この界隈《かいわい》を夕方になるとぶらついて、お前の様子を見て廻っていたのだよ、どうか、お前に一目、会いたいと思ってね」
「まあ……」
「お前さんが、旅の人に助けられたことも、薬屋へ送り届けられたことも、薬屋で養生をしてもとの身体になったことも、直ぐわかりましたよ。だからわしはお前さんの家へ忍び込んで、お前さんを奪い出そうとこう思ったがね、荒っぽいことをする前に、一応お前さんに直接《じか》に会って、わしの心の丈《たけ》をよく聞いてもらった上のことにしようと、毎日毎日、お前さんをつけ覘《ねら》っていたが、お前さんはまるきり外出をなさらぬ。いよいよ今晩こそと、思い込んだ矢先、お前さんは大急ぎで二階から下りて、植田のお陣屋の方へ行きましたね、占めたとわしはあの時から、お前さんのあとをつき通しで、ここまで来たのですよ」
 ああ、どこまで執念深《しゅうねんぶか》い男であろうとお豊は身慄《みぶる》いを止めることができません。
「金蔵さん、お前のお心は有難いけれども、どうぞ堪忍《かんにん》して下さ
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