猟師さんが雉子《きじ》でも打ったんでございましょう」
もとより七兵衛は何も知らない。もし間違いであって、拘《かかわ》り合いになっては面倒だから、いいかげんにあしらってサッサと歩き出すと、内山はよほど七兵衛を怪しい者と認めたらしく、
「待て待て」
「いや、急ぎますから、私共は急用の者でございますから」
「待てというに待たぬか」
七兵衛は足が早い、それを弱味があって逃げ出すものと認めたらしく、内山は丹後守から預かって来た「引落し式」の拳銃を七兵衛のうしろから差向けて、威《おど》すつもりで切って放した弾丸《たま》が、七兵衛の右の頬のわきおよそ一尺ぐらいのところを風を切って通ります。
「何をなさいます」
これには七兵衛も驚いた、いくら七兵衛が足が早いとても、鉄砲の玉にはかなわない。足をとどめて振返る途端《とたん》に左手の林の中へ飛び込みました。
馬上の両人は弾丸に驚いた七兵衛が、立竦《たちすく》んでしまうだろうと予期していたところを、彼は驚くべき敏捷《びんしょう》さで林の中へ身を投げ込んでしまったから、
「おのれ、曲者《くせもの》!」
二発、三発、例の拳銃を林の中へ打ち込んで、馬から飛び下りて探してみたが、もう七兵衛の姿は見えない。
十八
ここは針《はり》ヶ別所《べっしょ》というところの山の奥の奥。谷合《たにあい》の洞穴《ほらあな》へ杉の皮を葺《ふ》き出して、鹿の飲むほどな谷の流れを前にした山中の小舎《こや》。
無論、ここまで来てみれば、小舎も流れも、どこからも見えはしない、ここまで来るのでさえ道というものはついていない。
今、その中で人の話し声がする。いかに大きな声をしたからとて山の上まで響くはずがない。よし山の上へ響いたとて、そこには誰も聞く人はない。
「金蔵、うまくいったな」
ゾッとするほど気味の悪い鍛冶倉《かじくら》は、小舎の中へ敷き込んだ熊の皮の上にあぐらをかいて、煙草を吹かしてこういう。
「親方、うまくいきました」
金蔵はまだ落着かない様子。
「まあ、暫くはここで窮命《きゅうめい》しろ」
鍛冶倉は、この辺の山の中へところどころこんな小舎をこしらえておく。そこへはいつでも十日分ほどの食料を用意しておく。
「親方、こうなってみると、俺は一刻も早くお豊をつれて里へ出たい」
「ばかなことを言うな、いま連れ出せば罠《わな》の中へ首を突っ込むようなものだ、七日|辛抱《しんぼう》しろ、そうすれば、やすやすと抜けられる」
「七日は永いなあ」
「ナニ、永いことがあるものか、手鍋さげても奥山ずまいという本文通りよ、結句《けっく》、山ん中が面白《おもしろ》可笑《おかし》くていいじゃねえか」
鍛冶倉の笑いぶりは人間並みの笑いぶりではない、生塚《しょうづか》の婆様を男にして擽《くすぐ》ってみたような笑い方をする。金蔵はその笑い方を見て、いまさらゾッとして、
「親方、お豊は俺の女房だな」
「ふーん」
鍛冶倉は鼻のさきで笑った。金蔵は眼の色を少し変えた。
「親方、俺はお豊をつれて国越えをしてみたい、これからすぐに」
金蔵は、今、鍛冶倉の笑い方を見てはじめて、お豊をここへ置くことが怖ろしくなったらしい。
「何だい、何を言うのだい金蔵」
どうも冥府《よみ》から響いて人を取って食いそうな声だ。
「親方、お前さんはここに隠れておいでなさい、わしはこれからお豊をつれて逃げます。ナニ、命がけで逃げますよ」
「やい、金蔵、物を言うには、よく考えて言えよ」
「何だ、親方」
「この野郎、いま俺のすることをよく見ていろ」
何をするかと思えば鍛冶倉は、
「これやい、お豊、お豊坊」
鍛冶倉の背後《うしろ》には、さっきから女が一人、泣き伏している、その帯際《おびぎわ》を取った鍛冶倉。
馬上の武士に鉄砲で脅《おどか》された七兵衛は、林へ飛び込んで木の繁みを潜《くぐ》って北へ逃げた。
山辺郡《やまべごおり》につづくあたりは全く人家がない、初瀬の裏山へかかっても人家がない。
人家のないことは何でもない、山道を通ることも七兵衛には何の苦もない、山でも林でも、ずんずん横切って北へ通してみたら奈良街道へ出るだろう、それを南へ直下すれば八木へ着く。
楢《なら》の小枝を折って蜘蛛《くも》の巣を打ち払いながら北を指して行ったが、行けども行けども山。
そうして七兵衛は針ヶ別所に近い或る山の上に立って、木の下蔭から日脚《ひあし》の具合を見て、しばらく方角を考えていました。
別に疲れも怖れもしないが、いくら山の中の木の葉の繁みを歩いたからとて、夏のことだから汗も出れば咽喉《のど》も乾く。
「水が飲みたいな」
滝の音が聞えない、渓流の響きが耳に入るでもないけれども、山と山との谷間《たにあい》には多少の水はあるものである。木の葉の雫《しずく》が沢に落ちて、折々《おりおり》通う猪鹿の息つぎになる水を、谷底へ行けばどこかに見つけることができるものである。
七兵衛は、路のないこの山を一つ下りてみようとして、
「はて、誰かこの道を通ったものがあるらしいぞ」
下萌《したもえ》の中を見てこう言いながら下りて行きました。
七兵衛が下りて行った時分、この谷底では、ちょうどこの時、前のような有様でありました。
鍛冶倉がお豊の帯際に手をかけた時だけは、金蔵は怖《おそ》ろしさも恐《こわ》さも忘れてしまって、
「親方、どうしようというのだ」
前後の思慮もなく鍛冶倉に武者振《むしゃぶ》りつきました。
鍛冶倉はお豊を放《ほ》っておいて、そこに投げ出してあった細引《ほそびき》を拾い取ると片手に持って、金蔵を膝の下に組み敷く。
「親方、な、なにをするんだい」
金蔵とてもこのごろはかなりの悪党になっている。上から押えられながら、下から刎《は》ね返そうとする。
「この野郎」
鍛冶倉は縄を口でしごいて、処嫌《ところきら》わず金蔵を縛ろうとする。縛られまいとして、一生懸命の力は金蔵といえども侮《あなど》るべからず。
「な、何だい親方、そ、そう無茶に人を縛るなんて」
「野郎、手向いをしやがるな」
鍛冶倉は上から押しつぶそうとのし[#「のし」に傍点]かかる、金蔵は跳ね起きようともがく途端に、手に触れたのは鍛冶倉の腰にさしていた山刀《やまがたな》。それを奪い取ろうとして遮二無二《しゃにむに》引き廻すと、鞘《さや》が脱け落ちて身だけが金蔵の手に残る。
「アッ!」
どこを突いたか、突かれたか、鍛冶倉は縄を持ったなり二三尺|飛《と》び退《の》いて、横腹のあたりを押えながら面《かお》をしかめる。血がダラダラ二三滴、熊の皮の敷物の上へ落ちる。
「野郎、突いたな!」
「突いたがどうした」
けれども、鍛冶倉の引っぱった縄は金蔵の首に捲きついている。
「アッ、苦しい!」
縄をグッと引くとグッとくびれる。
「アッ苦しい! お豊……お豊さあーん」
血の染《し》みた山刀を振り廻して金蔵は眼を白黒《しろくろ》、苦しまぎれにお豊の名を呼びながら無茶苦茶に飛びかかって山刀で鍛冶倉の面を斬る。鍛冶倉は左の脇腹《わきばら》を刺されている。金蔵の首へかけた縄は放さなかったけれど金蔵の刀は避けられず、またしても左の額際《ひたいぎわ》を一刀《ひとたち》やられた。血が迸《ほとばし》って眼へ入る。
「野郎、また斬ったな」
「アッ、苦しい、お豊……お豊さあーん」
向うが苦しがれば苦しがるほど、こっちが苦しい。
「ア痛ッ」
鍛冶倉は眼へ血が入ったので、夢中になって、金蔵の首へかけた縄は放さずに小舎《こや》の外へ転がり出す。金蔵はそれに引っぱられて、
「ああ苦しい!」
もう息の根が止まりそうである。断末魔《だんまつま》の勇気でまた斬りつけたのが鍛冶倉の肩先。
「あッ、また斬りやがった」
鍛冶倉は外へのり出して、谷水の傍の岩角へ打倒れたが、起き直ってめくら探しに金蔵の傍へよる。
「野郎、飛んでもねえ、呑んでかかったのがこっちの落度《おちど》だ……覚えてろ、よくも俺を斬りやがったな」
細引をもう一捲き、金蔵の首に捲いた時は、乳のあたりをまた深く一つ。
「あッ痛っ!」
今度のはいちばん痛そうであったが、
「アッ苦しい!」
金蔵の方も、これがいちばん苦しそうであった。この一言で双方の力がグッタリ尽きた。
お豊はこの騒ぎで、もう前から気絶している、つづいて二人はこんなことをして息が絶えてしまった。それで小屋の中が森閑《ひっそり》したところへ七兵衛が水を呑みに下りて来たのでした。だから七兵衛は、ちょうどこれらの連中を始末するためにここへ下りて来たようなことになりました。
十九
伊賀の上野の鍵屋《かぎや》の辻《つじ》というのは、かの荒木又右衛門が手並《てなみ》を現わした敵打《かたきう》ちの名所。
その鍵屋の辻に近い吉田屋という旅籠屋《はたごや》の一室に、机竜之助は、まだ袴《はかま》も取らないで柱によりかかっている。
襖《ふすま》一重の次の間で、
「拙者は、田中新兵衛の仕業《しわざ》に相違ないと思う」
「いや、拙者はそう思わぬ、田中はそんな男でない」
田中新兵衛という名。京都へ上るときに大津を出て、逢坂山《おうさかやま》の下の原で、後ろから不意に呼びかけて自分に果し合いを申込んだ薩州の浪人がそれだ。
「田中でなくば、あれだけのことはやれぬ、第一、証拠がある」
「いやいや、田中なら、あんなことはやらぬ。刀を捨てて逃げるような慌《あわ》てた真似《まね》をするものでない」
「というて、その刀は田中のほかに持つべき品でない」
「さあ、それが拙者にも解《げ》せぬ、田中はなんとも言わず腹を切ったことだから、どうも解らぬわい」
「申し開きをせず腹を切ったことだから、言わずと当人|罪《つみ》に落ちたものじゃ」
「そうとも言い切れぬ、何かその間《かん》に……拙者もよく知っているが、あの田中という男は人を斬ったこと幾人か知れぬ、人を斬ることは朝飯前と心得ている、近頃は仕事がなくて腕が鳴る、誰か斬る奴はないかと人斬りを請負《うけお》って歩くほどの男じゃ」
「それにしても先方に位がある、威に怖《おじ》けたかも知れぬ」
「そんなことはない、侍従や少将の位が怖《こわ》くて暗殺はできん」
「役人も、薩州方も、新兵衛の仕業《しわざ》と思うているそうじゃ」
「拙者は、やはりそう思わぬ、新兵衛ではない」
これだけ聞いたのでは何だかサッパリわからない。人を斬ったのは田中新兵衛である、いやそうでない、斬って刀を捨てて来た、当人は黙って切腹した、斬られたのは位のある人――これだけの話の筋を辿《たど》れば、かの主水正正清《もんどのしょうまさきよ》の長刀を帯していた新兵衛が、あの刀で誰をか斬ったものだろう。とにかく、あの男は何かやりそうな男であったが、はたして何かやった。しかし切腹とはかわいそうである。竜之助は、もっと詳《つまび》らかにそのことを聞いてみたいがと思っていると、階下《した》から数多くの人の足音。
「やあ、遅《おそ》なわり申した」
「これは、諸君」
刀の鞘《さや》、袴《はかま》の裾の音がものものしい。聞いてみると、それは雑多の声で、九州弁もあれば土佐弁もある。この地の藩の人ではない――近ごろ流行《はや》る浪人者である、と竜之助は直ぐに感づきました。
今の次の間の話――田中新兵衛が何者を斬ったかというのはこうである。
これより先、五月の二十一日に、京都|朔平門外《さくへいもんがい》、猿ヶ辻というところで、姉小路少将公知《あねこうじしょうしょうきんとも》という若い公卿《くげ》さんが斬られた。
少将がその日の夕方、吉村右京、金輪勇という二人の家来をつれ、提灯持《ちょうちんもち》を先に立てて、御所を出でて猿ヶ辻のところまで来た。
御所へ水を入れるところの堰《せき》の蔭から、物をも言わず跳《おど》り出でた三人の男がある。大業物《おおわざもの》を手にして、面《かお》も身体《からだ》も真黒で包んでいた。
「すわ!」
吉村右京は血気盛んの壮者《わかもの》であったから、素手《すで》でこ
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