ことし五十幾つの老夫婦のほかに、郡山《こおりやま》の親戚から養子を一人迎えて、あとは男女十余人の召使のみで賑《にぎや》かなような寂しい暮しをしております。
子というものを持たぬ丹後守は、客を愛すること一通りでない、いかなる客であっても、訪ねて来る者に一宿一飯を断わったことがない――それらの客と会って話をするというよりは、その話を聞くことが楽しみなのである。
客の口から、国々の風土人情、一芸一能の話に耳を傾けて、時々|会心《かいしん》の笑《えみ》を洩《も》らす丹後守の面《かお》には聖人のような貴《とうと》さを見ることもあります。けれども、ただ客を延《ひ》いては話を聞くだけで、丹後守自身には何もこれと自慢めいた話はない。
人の言うところには、丹後守は、弓馬刀槍《きゅうばとうそう》の武芸に精通し、和漢内外の書物を読みつくし、その上、近頃は阿蘭陀《オランダ》の学問を調べていると。なるほど、丹後守は幼少からこの邸を離れたことがなく、ほとんど終日、書斎に籠りがちで、祖先以来伝えられた和漢の書物と、自分が買い入れた書物とは、蔵《くら》にも室にも山をなしているのであるから、一日に五冊を読むとしても、仮りに五十年と見積れば十万冊は読んでいる勘定になります。
武芸に至っては、どうも怪しい。家には先祖から道場があって、これも幼少の頃から、宝蔵院の槍《やり》、柳生流の太刀筋《たちすじ》をことに精出して学んだとはいうが、誰も丹後守と試合をした者もなし、表立って手腕を表《あら》わした機会もないから、事実どのくらい出来るやを知っているものはないのです。
ただ一度、どこかの藩の権者《きけもの》が、この三輪明神の境内《けいだい》へ逸《はや》り切った馬を乗入れようとした時に、通り合せた丹後守がその轡《くつわ》づらを取り、馬の首を逆に廻したことがある――馬上の武士は怒って、鞭《むち》を振り上げて丹後守を打とうとした時に、何のはずみ[#「はずみ」に傍点]か真逆《まっさか》さまに鞍壺《くらつぼ》から転《ころ》げ落ちて、馬は棹立《さおだ》ちになった。
なにげなき体《てい》でそのまま行き過ぎる丹後守の後ろ姿を見て、落馬の武士も、附添の者も、これを追いかける勢いがなかった、それを町の者が見て舌を捲《ま》いたことがある。それ以来、「御陣屋の大先生」の武芸を疑うものがなくなった。
机竜之助は、この人にはじめて会って見ると、父なる弾正の面影《おもかげ》を偲《しの》ばずにはいられなかった。なんとなく威光のある、そうして懐《なつか》しい人柄《ひとがら》だと、荒《すさ》びきった机竜之助の心にも情けの露が宿る。
「これは仕合《しあわ》せなことじゃ、どうか暫らくこの道場を預かっていただきたい」
丹後守は、道場へ出て竜之助の試合ぶりを見てこう言うた――この道場にはべつだん誰といって師範者はないけれど、丹後守の邸には、召使のほかに、いつも五人十人の食客《しょっかく》がいる。多くは浪人者で、そのほか、国々や近在から、武芸修行者が絶えず集まって参ります。
五
見も知らぬ浮浪人を、快く家に通すさえあるに、その技倆を信じて、己《おの》が道場を任せて疑わぬ丹後守の度量には、机竜之助ほどの僻《ねじ》けた男も、そぞろ有難涙《ありがたなみだ》に暮れるのであります。竜之助は再びここで竹刀《しない》をとって、人を教える身となります。何から言うても、よくもとの身の上に似ている、丹後守を父として見る時に、竜之助には更に強く強く親の慈悲というものがわかってくるのであります。いかに物事に不自由がなくても、子のない人には、消して消せない寂しさがあります。
われ一人を子に持って、三年越しの病の床から、勘当を言い渡さねばならなかった父弾正の胸の中はどんなであったろう――一徹《いってつ》の頑固《がんこ》な父とのみ見ていた自分の眼は若かった。このごろでは竜之助も、東に向いて別に改まって手を合わすようなことはせぬけれど、ひそかに襟《えり》を正して、父の上安かれと祈ることもたびたびであります。
彼は、このしおらしき心根《こころね》から、おのずと丹後守に仕える心も振舞《ふるまい》も神妙になる――もともと竜之助は卑《いや》しく教育された身ではない、どこかには人に捨てられぬところが残っているのであろう、丹後守夫婦は竜之助を愛してなにくれと世話をします。ここへ来てから三日目の夕べ、竜之助は三輪明神の境内を散歩して、うかうかと、かの薬屋源太郎の裏道の方へ出てしまいました。
竹の垣根があって、かなりに広い庭の植込から、泉水のひびきなども洩《も》れて聞えます。庭の方は大きな構えで、燈火《あかり》が盛んにかがやいて客や女中の声がやかましいのに、この裏庭は、垣根一重を境にして、一間ほどの田圃道《たんぼみち》
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