大菩薩峠
三輪の神杉の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大和《やまと》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伊勢の国|関《せき》の宿《しゅく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]
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一
大和《やまと》の国、三輪《みわ》の町の大鳥居の向って右の方の、日の光を嫌《きら》って蔭をのみ選《よ》って歩いた一人の女が、それから一町ほど行って「薬屋」という看板をかけた大きな宿屋の路地口《ろじぐち》を、物に追われたように駈けこんで姿をかくします。
よくはわからなかったが、年はたしか二十三から七までの間、あまり目立たないつくりで、伏目に歩みを運ぶ面《かお》には、やつれが見えて何となしに痛わしいが、それでも、すれ違ったものを一たびは振返らせる。鳥居の両側にはいずれにも茶屋がある、茶店のないところには宿屋があって――女の姿をいちばんさきに見つけたのは、陸尺《ろくしゃく》や巡礼などの休みたがる、構えの大きいわりに、燻《くす》ぶった、軒には菱形《ひしがた》の煙草の看板がつるされ、一枚立てきられた腰高障子には大きな蝋燭《ろうそく》の絵がある茶店の中に、将棋《しょうぎ》を差していた閑人《ひまじん》どもであります。
「あれかよ、あれかよ」
「あれだ、あれだ」
碁将棋を打つ閑人以上の閑人は、それを見物しているやつであります。岡眼《おかめ》をしていた閑人以上の閑人が、今ふと薬屋の路地を入って行った女の姿を認めた時は、一局の勝負がついた時であったから、こんな場合には髷《まげ》の刷毛先《はけさき》の曲ったのまでが問題になる。
「噂《うわさ》には聞いたが、姿を拝んだのは今日が初めてだ、なるほど」
「惜しいものだね――」
藍玉屋《あいだまや》の息子で金蔵という不良少年は、締りのない口元から、惜しいものだね――と、ね――に余音《よいん》を持たせて、女の入って行ったあとを飽かずに見ていたが、
「全く、あのままこの山の中に埋めておくは惜しいものでございますなあ」
図抜《ずぬ》けて大きな眼鏡をかけた材木屋の隠居も、どうやら残り惜しい顔をしている。
「全く罪ですな、およそ世の中にあのくらい罪なものはございませんな」
ちょっと覗《のぞ》きに来たつもりで、うかうかと立見《たちみ》をしてしまった隣の宿屋の番頭も、つり込まれて慷慨《こうがい》の体《てい》。
「左様《さよう》、全く罪なことでござるよ、あんなのはいっそ助けない方がようござるな、添うに添われず、生きるに生きられず、現世《このよ》で叶《かな》わぬ恋を未来で遂げようというのじゃ、それを一方を殺し一方を助けるなんぞ冥利《みょうり》に尽きたわけさ」
眼鏡の隠居は慨歎する。
「でもね――女に廃《すた》りものはないからねえ」
藍玉屋の息子のねむそうな声が一座を笑わせる。
ここに問題となった女は、机竜之助が鈴鹿峠《すずかとうげ》の麓、伊勢の国|関《せき》の宿《しゅく》で会い、それから近江の国大津へ来て、竜之助の隣の室で心中の相談をきめ、その夜のうちに琵琶湖へ身を投げて死んだはずのお豊――すなわちお浜に似た女であります。
一人は死に、一人は残る。そうしていま女は親戚《しんせき》に当るこの三輪の町の薬屋(薬屋といっても売薬屋ではない、旅籠屋《はたごや》である)源太郎の家へ預けられている。
二
助けて慈悲にならぬのは心中の片割《かたわ》れであります。
一方を無事に死なしておいて、一方を助けて生かしておくのは、蛇の生殺《なまごろ》しより、もっと酷《むご》いことである。
不幸にして、お豊はあれから息を吹き返した、真三郎は永久に帰らない、死んだ真三郎は本望《ほんもう》を遂げたが、生きたお豊は、その魂《たましい》の置き場を失うた。
これを以て見れば、大津の宿で机竜之助が、生命《いのち》を粗末にする男女の者に、蔭ながら冷《ひや》やかな引導《いんどう》を渡して、「死にたいやつは勝手に死ね」と空嘯《そらうそぶ》いていたのが大きな道理になる。
息を吹き返して、伯父に当るこの三輪の町の薬屋源太郎の許《もと》へ預けられた後のお豊は、ほんとうに日蔭の花です。誰が何というとなく、お豊の身の上の噂は、広くもあらぬ三輪の町いっぱいに拡がった。
お豊は離座敷《はなれ》に籠《こも》ったまま滅多《めった》に出て歩かないのに、月に三度は明神へ参詣します。今日は参詣の当日で、かの閑人《ひまじん》どもに姿を見咎《みとが》められて、口の端《は》に上ったのもそれがためでありました。
女というものは、どこへ隠
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