れても人の眼と耳を引き寄せる。お豊が来て二三日たたないうちに、夜な夜な薬屋の裏手の竹垣には大きな穴がいくつもあいた。ここへ来てから、もう七十五日は過ぎたのに、お豊の噂《うわさ》だけは容易になくなりません。
かの藍玉屋の金蔵の如きは、執心《しゅうしん》の第一で、何かの時に愁《うれ》いを帯びたお豊の姿を一目見て、それ以来、無性《むしょう》に上《のぼ》りつめてしまったものです。
事にかこつけては薬屋へ行って、夫婦の御機嫌《ごきげん》をとり、折もあらば女と親しく口を利《き》いてみたいと、いろいろに浮身《うきみ》をやつしているので、今ほかの連中はまた一局に夢中になる頃にも、金蔵のみは女の消え去った路地口を、じーっと見つめたまま立っています。
時は夏五月、日盛りは過ぎたが、葭簾《よしず》の蔭で、地はそんなに焼けてもいなかったのに打水《うちみず》が充分に沁《し》みて、お山から吹き下ろす神風が懷《ふところ》に入る時は春先とも思うほどの心地《ここち》がします。
「少々ものを尋ねとうござるが……」
一方は将棋に夢中で、一方は路地口に有頂天《うちょうてん》である。
「植田|丹後守《たんごのかみ》殿の御陣屋は……」
「ナニ、植田様の御陣屋――」
金蔵はやっと、店先に立ってものをたずねている旅の人に眼をうつした。この暑いのにまだ袷《あわせ》を着ている。手には竹の杖。
女を見て総立ちになった閑人どもは、このたびは一人として見向きもしない。
問いかけられた当の金蔵すらも、直ぐに眼をそらして、
「植田様は、これを真直ぐに左」
鼻であしらう。
旅人は、教えられた通りにすっくと歩んで行く。これはこれ、昨夜を長谷《はせ》の籠堂《こもりどう》で明かしたはずの机竜之助でありました。
三
長谷から三輪へ来たのでは後戻《あともど》りになる。
関東へ帰るつもりならば、長谷の町の半ばに「けわい坂」というのがあって、それを登ると宇陀郡《うだごおり》萩原の宿へ出る、それが伊勢路へかかって東海道へ出る道であるから、当然それを取らねばならぬ。竜之助が、この三輪まで逆戻りをして来たからには、関東へ帰る心を抛《なげう》ったのであろう。また京都へ帰る気になったのかも知れぬ。いや、そうでもない、彼は今や西へも東へも行詰まっている。立往生《たちおうじょう》をする代りに、籠堂へ坐り込んで一夜を明かした、が、百八|煩悩《ぼんのう》を払うというなる初瀬《はつせ》の寺の夜もすがらの鐘の音も、竜之助が尽きせぬ業障《ごうしょう》の闇に届かなかった。迷いを持って籠堂に入り、迷いをもって籠堂を出た竜之助は、長谷の町に来て、ふとよいことを聞いた。
これから程遠からぬ三輪の町に植田丹後守という社家《しゃけ》がある――武術を好んでことのほか旅の人を愛する、そこへ行ってごらんなさいと、長谷の町の町はずれで、井戸の水を無心しながら、このあたりに武術家はないかと、それとなく竜之助が尋ねた時に煙草を刻《きざ》んでいた百姓が教えてくれた。竜之助は、ともかくもその植田丹後守なる三輪大明神の社家を訪ねてみる気になって、ここまでやって来たものです。
教えられた通りに来て見ると、これは思ったより宏大《こうだい》な構えである。小さな大名、少なくとも三千石以上の暮らし向きに見える。竜之助は入り兼ねていささか躊躇《ちゅうちょ》した。
というのは、自分のこの姿が、いまさらに気恥かしくなったからです。このなりで玄関へかかったところで、誰が武術修行者として受取ってくれるものか、きわめて情け深い人で、いくらかの草鞋銭《わらじせん》を持たして体《てい》よく追っ払うが関の山、まかり間違えば、浮浪人として突き出される。
いったん竜之助は通り過ごして若宮の方へ行き、また引返したが、別に妙案とてあるべきはずがない。
「頼む――」
思いきって、そのまま玄関からおとなう。
「どーれ」
十八九の青年が現われて来て、竜之助を見る、その物腰《ものごし》が武術家仕込みらしく、竜之助の風采《ふうさい》に多少の怪しみの色はあっても侮《あなど》りの気色《けしき》が乏しいから、
「御主人は御在宅か。拙者は仔細《しさい》あって姓名はここに申し難《がた》けれど、京都をのがれて、旅に悩む者。御高名をお慕い申して……」
「心得てござる、暫時《ざんじ》これにお控え下さい」
青年の呑込《のみこ》みぶりは頼もしい。竜之助はしばらく待っていると青年は再び現われて、
「いざ、お通り下され、ただいま洗足《せんそく》を差上げるでござりましょう」
案ずるより産《う》むが安い。さすがの竜之助もその心置きなき主人の気質がしのばれて、この時ばかりは涙のこぼれるほど嬉《うれ》しかった。
四
植田丹後守には子というものがない、
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