につづいては、威勢よく今年の稲が夕風に戦《そよ》いで、その間に鳴く蛙《かわず》が、足音を聞いては、はたはたと小川に飛び込むくらいの静かさです。
竜之助は、この田圃道を通って見ると、その垣根のところに黒い人影がある――夏の夕ぐれはよく百姓たちが田の水を切ったり、または漁具を伏せて置いて鰻《うなぎ》や鰌《どじょう》などを捕るのであるから、大方そんなものだろうと思うと、その人影は、垣根の隙《すき》から庭の中を一心に覗《のぞ》いていたが、どう思ったか、人丈《ひとたけ》ほどな垣根を乗り越えて、たしかに中へ忍び入ろうとします。しかも穏《おだや》かでないことは、あまり目立たない色の手拭か風呂敷を首に捲いて面をつつんでいることであります。
竜之助は近寄って、何の雑作《ぞうさ》もなく、いま中へ飛び込もうとする足をグッと持って引っぱると、たあいもなく下へ落ちました。
落っこちた男は、
「この野郎」
いきなりに竜之助に武者振りついて来たのを、竜之助は無雑作に取って、田の中へ投げつけた。
投げつけられても、稲の茂った水田《みずた》の中ですから別に大した怪我《けが》はなく、暫らくもぐもぐとやって、泥だらけになって起き返ると、
「覚えてやがれ」
田の中を逃げて行きます。
小盗人《こぬすっと》!
もとより歯牙《しが》にかくるに足らず、竜之助は邸へ帰った時分には、そんなことは人にも話さなかったくらいですから道で忘れてしまったものと見えます。けれどもこれ以来、忘れられぬ恨《うら》みを懐《いだ》いたのは投げられた方の人であります。
泥まみれになって自分の家の井戸側へ馳《は》せつけたのは、かの藍玉屋《あいだまや》の金蔵で、ハッハッと息をつきながら、
「口惜《くや》しい! 覚えてやがれ、御陣屋の浪人者!」
吊《つ》り上げては無性《むしょう》に頭から水を浴びて泥を洗い落して、
「金蔵ではないか、何だ、ざぶざぶと水を被《かぶ》って」
親爺《おやじ》が不審がるのを返事もせずに居間へ飛び込んで、
「早く着替《きがえ》を出せ、寝巻でよいわ、エエ、床を展《の》べろ、早く」
さんざんに下女を叱《しか》り飛ばして、寝床へもぐって寝込んでしまいました。
この藍玉屋は相当の資産家であるから、その一人息子である金蔵が、まさか盗みをするために人の垣根を攀《よ》じたわけでないことはわかっています。竜之助のために蛙を叩きつけられたような目に会い、幸い泥田であったとはいえ、手練《しゅれん》の人に如法《にょほう》に投げられたのですから体《たい》の当りが手強《てごわ》い。
痛みと、怒りと、口惜しさで、その夜中から金蔵は歯噛《はが》みをなして唸《うな》り立てます。
「覚えてやがれ、このごろ来た御陣屋の痩浪人《やせろうにん》に違いない」
金蔵の親爺の金六と女房のお民とは非常な子煩悩《こぼんのう》でありました。一人子の病み出したのを気にして枕許《まくらもと》につききり、医者よ薬よと騒いでいましたが、今ようやく寝静まった我が子の面《かお》を、三つ児の寝息でも窺《うかが》うように覗《のぞ》きながら、
「ねえ、あなた、今ではこの子も自暴《やけ》になっているのでございますよ」
「そうだ、そうに違いない。それにしても、あの薬屋の奴は情を知らぬ奴だ」
「ほんとにそうでございますよ、あんな心中の片割れ者なんぞ、誰が見向きもするものか、この子が好いたらしいというからこそ、人を頼んだり、直接《じか》にかけ合ったり、下手《したで》に出ればいい気になって勿体《もったい》をつけてさ、それがためにこの子が焦《じ》れ出して、こんな病気になるのもほんとに無理がありませんよ」
「困ったものだ――」
子に甘い親二人は、わが子には少しも非難の言葉を出さず、なにか、やっぱり人を怨《うら》んでいるようである。
これはたあいもないことです。金蔵はお豊を見染めて、それを嫁に貰ってくれねば生きてはいないと、親たちに拗《す》ねて見せる――そうして親をさんざんに骨を折らせたが、思うようにいかない。今夜も、そっと垣根を越えて、お豊のいる離れ座敷まで忍んで行こうとしたところを、竜之助に引き落されて投げられた。
まことにばかげた話であるけれど、世に怖《おそ》るべきは賢明な人の優良な計画だけではない、執念《しゅうねん》の一つは賢愚不肖《けんぐふしょう》となく、こじれると悪い業《わざ》をします。
六
お豊は、月のうち三度は三輪の神杉《かみすぎ》を拝みに行く。
三輪の大明神には、鳥居と楼門と拝殿だけあって本社というものがない。古典学者に言わせると、万葉集には「神社」と書いて「モリ」と読ませる。建築術のなかった昔にも神道はあった、樹を植えて神を祀《まつ》ったのがすなわち神社である――この故に三輪の神杉には神
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