霊が宿る云々《うんぬん》。
 三諸山《みもろやま》から吹いて来る朝風の涼しさに、勅使殿や切掛杉《きりかけすぎ》にたかっていた鳩《はと》は、濡《しめ》っぽい羽ばたきの音をして、悠々と日当りのよい拝殿の庭へ下りて来て、庭に遊んでいた鶏の群に交《まじ》る。
「お早うございます」
 豆を売る婆《ばあ》さんは、もう店を出して、お豊の来たのに向うから挨拶《あいさつ》をします。
「お早うございます」
 お豊も返事をして、いつもの通り、豆を買って鳩に蒔《ま》いてやります。鳩が豆皿を持ったお豊の手首や肩先に飛び上って、友達気取りに振舞《ふるま》うのも可愛らしい。鶏が遠くから居候《いそうろう》ぶりに出て来て豆を拾う姿も罪がない。
 お豊の面《かお》に、いささかの頬笑《ほおえ》みの影が浮ぶのであります。
 拝殿の前から三輪の御山を拝む。
 御山は春日《かすが》の三笠山と同じような山一つ、樹木がこんもりとして、朝の巒気《らんき》が神々《こうごう》しく立ちこめております。
 若い女の人で三輪大明神を拝みに来る人は、たいてい帰りに、楼門の右の脇《わき》の「門杉《かどすぎ》」に願《がん》をかけて行く。
 三輪の七杉《ななすぎ》のなかの「門杉」の故事は、ここにいえば長い。
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我が庵《いほ》は三輪の山もと恋しくば
 ともなひ来ませ杉立てる門《かど》
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の歌がそれです。
 お豊は、その門杉には別に願いをかけることもなく、楼門の石段を下りても、その方へは別に足を向けないで、宝永三年、大風のためにその一本を吹き折られた名ばかりの二本杉の方へ参ります。
 一人は死に一人は助かる運命が、ちょうどこの二本杉のようだと思われるお豊には、三輪の七つの神杉のうち、この二本杉ばかりを拝みたい。一つには、この杉に願いをかければ、いったん夫婦の契《ちぎ》りを結んで一方の欠けた人々には、この上なき冥福《めいふく》があるという――かの門杉は縁を結ぶの杉で、この二本杉は縁の切れた杉である。
 一《いつ》は青春の子女に愛せられ、一は寡独《かどく》の人に慕われる。
 吹き折られた杉の傷のあとは、まだ癒《い》えない。そこから辛《かろ》うじて吹き出した芽生えを見ているお豊の面には痛々しい色があります。

         七

 机竜之助も、ふとこの朝、植田の邸を出て、爽《さわ》やかな夏の朝の巒気《らんき》を充分に吸いながら、長者屋敷の方を廻って、何の気もなくこの二本杉のところまで来かかったのでありました。お豊はその足音に気がついて、人目を避けたい身の上ですから、隠れるようにそこを立去ろうとしたが、杉から右の方、二間ばかりのところに、じっと立ち止まって、こちらを見ていた竜之助の面を一目見たが、我知らずまた見直すのでありました。
 二人の面と面とが、まともに向き合わせられた時に、お豊は、
「あの、あなた様は……」
 何かに圧《おさ》えられたように、こう言ってしまいました。
「あ、関の宿《しゅく》でお見受け申した……」
 竜之助は、お豊の姿からちっとも眼をはなさずに、ずっと近寄って来ます。
「はい、あの節は難儀をお助け下さいまして」
「ああ、そうであったか、実はどこぞでお見かけ申したようじゃと、さいぜんからここで考えておりました」
「存じませぬこと故、甚だ失礼致しました」
「いや、拙者こそ……」
 竜之助は、いつもの通り感情の動かない顔で、
「しかし、そなた様をこの世でお見かけ申そうとは思わなかった」
「え……」
「あの若い、おつれの方《かた》はどうしました」
 お豊は露出《むきだし》にこう言いかけられて面が真紅《まっか》になります。わが隠し事を腸《はらわた》まで見透かされた狼狽《ろうばい》から、俯向《うつむ》いてしまってにわかには言葉も出ない、足も立ちすくんでしまった様子であります。
「まことに、お恥かしゅうございます。それではあなた様には、何もかも」
「いや、何もいっこう知りませぬが、そなた様だけはこの世にない人と思っておりました」
「生きて生《い》き甲斐《がい》のない身でございます、お察し下さいませ」
 お豊は、ハラハラと涙をこぼして言葉もつまってしまったのであります。
 それを気の毒と見たか、哀れと思ったか竜之助は、
「縁あらば詳《くわ》しいお身の上を聞きもし語りもしましょう。して、そなた様は今どこにおられます」
「はい、この土地の薬屋と申す旅籠屋《はたごや》が伯父に当りまして」
「はあ、薬屋……拙者はこの植田丹後守の邸におります」
 そのまま竜之助はサッサと楼門の方をさして通り過ぎてしまいました。
 お豊は思いがけぬところで、思いがけない人に会い、思いがけない言葉を浴びせられて、しばらくなんだか夢中になってしまいました。
 何という素気《そっけ》
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