首を突っ込むようなものだ、七日|辛抱《しんぼう》しろ、そうすれば、やすやすと抜けられる」
「七日は永いなあ」
「ナニ、永いことがあるものか、手鍋さげても奥山ずまいという本文通りよ、結句《けっく》、山ん中が面白《おもしろ》可笑《おかし》くていいじゃねえか」
鍛冶倉の笑いぶりは人間並みの笑いぶりではない、生塚《しょうづか》の婆様を男にして擽《くすぐ》ってみたような笑い方をする。金蔵はその笑い方を見て、いまさらゾッとして、
「親方、お豊は俺の女房だな」
「ふーん」
鍛冶倉は鼻のさきで笑った。金蔵は眼の色を少し変えた。
「親方、俺はお豊をつれて国越えをしてみたい、これからすぐに」
金蔵は、今、鍛冶倉の笑い方を見てはじめて、お豊をここへ置くことが怖ろしくなったらしい。
「何だい、何を言うのだい金蔵」
どうも冥府《よみ》から響いて人を取って食いそうな声だ。
「親方、お前さんはここに隠れておいでなさい、わしはこれからお豊をつれて逃げます。ナニ、命がけで逃げますよ」
「やい、金蔵、物を言うには、よく考えて言えよ」
「何だ、親方」
「この野郎、いま俺のすることをよく見ていろ」
何をするかと思えば鍛冶倉は、
「これやい、お豊、お豊坊」
鍛冶倉の背後《うしろ》には、さっきから女が一人、泣き伏している、その帯際《おびぎわ》を取った鍛冶倉。
馬上の武士に鉄砲で脅《おどか》された七兵衛は、林へ飛び込んで木の繁みを潜《くぐ》って北へ逃げた。
山辺郡《やまべごおり》につづくあたりは全く人家がない、初瀬の裏山へかかっても人家がない。
人家のないことは何でもない、山道を通ることも七兵衛には何の苦もない、山でも林でも、ずんずん横切って北へ通してみたら奈良街道へ出るだろう、それを南へ直下すれば八木へ着く。
楢《なら》の小枝を折って蜘蛛《くも》の巣を打ち払いながら北を指して行ったが、行けども行けども山。
そうして七兵衛は針ヶ別所に近い或る山の上に立って、木の下蔭から日脚《ひあし》の具合を見て、しばらく方角を考えていました。
別に疲れも怖れもしないが、いくら山の中の木の葉の繁みを歩いたからとて、夏のことだから汗も出れば咽喉《のど》も乾く。
「水が飲みたいな」
滝の音が聞えない、渓流の響きが耳に入るでもないけれども、山と山との谷間《たにあい》には多少の水はあるものである。木の葉の雫《しずく》が沢に落ちて、折々《おりおり》通う猪鹿の息つぎになる水を、谷底へ行けばどこかに見つけることができるものである。
七兵衛は、路のないこの山を一つ下りてみようとして、
「はて、誰かこの道を通ったものがあるらしいぞ」
下萌《したもえ》の中を見てこう言いながら下りて行きました。
七兵衛が下りて行った時分、この谷底では、ちょうどこの時、前のような有様でありました。
鍛冶倉がお豊の帯際に手をかけた時だけは、金蔵は怖《おそ》ろしさも恐《こわ》さも忘れてしまって、
「親方、どうしようというのだ」
前後の思慮もなく鍛冶倉に武者振《むしゃぶ》りつきました。
鍛冶倉はお豊を放《ほ》っておいて、そこに投げ出してあった細引《ほそびき》を拾い取ると片手に持って、金蔵を膝の下に組み敷く。
「親方、な、なにをするんだい」
金蔵とてもこのごろはかなりの悪党になっている。上から押えられながら、下から刎《は》ね返そうとする。
「この野郎」
鍛冶倉は縄を口でしごいて、処嫌《ところきら》わず金蔵を縛ろうとする。縛られまいとして、一生懸命の力は金蔵といえども侮《あなど》るべからず。
「な、何だい親方、そ、そう無茶に人を縛るなんて」
「野郎、手向いをしやがるな」
鍛冶倉は上から押しつぶそうとのし[#「のし」に傍点]かかる、金蔵は跳ね起きようともがく途端に、手に触れたのは鍛冶倉の腰にさしていた山刀《やまがたな》。それを奪い取ろうとして遮二無二《しゃにむに》引き廻すと、鞘《さや》が脱け落ちて身だけが金蔵の手に残る。
「アッ!」
どこを突いたか、突かれたか、鍛冶倉は縄を持ったなり二三尺|飛《と》び退《の》いて、横腹のあたりを押えながら面《かお》をしかめる。血がダラダラ二三滴、熊の皮の敷物の上へ落ちる。
「野郎、突いたな!」
「突いたがどうした」
けれども、鍛冶倉の引っぱった縄は金蔵の首に捲きついている。
「アッ、苦しい!」
縄をグッと引くとグッとくびれる。
「アッ苦しい! お豊……お豊さあーん」
血の染《し》みた山刀を振り廻して金蔵は眼を白黒《しろくろ》、苦しまぎれにお豊の名を呼びながら無茶苦茶に飛びかかって山刀で鍛冶倉の面を斬る。鍛冶倉は左の脇腹《わきばら》を刺されている。金蔵の首へかけた縄は放さなかったけれど金蔵の刀は避けられず、またしても左の額際《ひたいぎわ》を一刀《ひとたち
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