》やられた。血が迸《ほとばし》って眼へ入る。
「野郎、また斬ったな」
「アッ、苦しい、お豊……お豊さあーん」
 向うが苦しがれば苦しがるほど、こっちが苦しい。
「ア痛ッ」
 鍛冶倉は眼へ血が入ったので、夢中になって、金蔵の首へかけた縄は放さずに小舎《こや》の外へ転がり出す。金蔵はそれに引っぱられて、
「ああ苦しい!」
 もう息の根が止まりそうである。断末魔《だんまつま》の勇気でまた斬りつけたのが鍛冶倉の肩先。
「あッ、また斬りやがった」
 鍛冶倉は外へのり出して、谷水の傍の岩角へ打倒れたが、起き直ってめくら探しに金蔵の傍へよる。
「野郎、飛んでもねえ、呑んでかかったのがこっちの落度《おちど》だ……覚えてろ、よくも俺を斬りやがったな」
 細引をもう一捲き、金蔵の首に捲いた時は、乳のあたりをまた深く一つ。
「あッ痛っ!」
 今度のはいちばん痛そうであったが、
「アッ苦しい!」
 金蔵の方も、これがいちばん苦しそうであった。この一言で双方の力がグッタリ尽きた。

 お豊はこの騒ぎで、もう前から気絶している、つづいて二人はこんなことをして息が絶えてしまった。それで小屋の中が森閑《ひっそり》したところへ七兵衛が水を呑みに下りて来たのでした。だから七兵衛は、ちょうどこれらの連中を始末するためにここへ下りて来たようなことになりました。

         十九

 伊賀の上野の鍵屋《かぎや》の辻《つじ》というのは、かの荒木又右衛門が手並《てなみ》を現わした敵打《かたきう》ちの名所。
 その鍵屋の辻に近い吉田屋という旅籠屋《はたごや》の一室に、机竜之助は、まだ袴《はかま》も取らないで柱によりかかっている。
 襖《ふすま》一重の次の間で、
「拙者は、田中新兵衛の仕業《しわざ》に相違ないと思う」
「いや、拙者はそう思わぬ、田中はそんな男でない」
 田中新兵衛という名。京都へ上るときに大津を出て、逢坂山《おうさかやま》の下の原で、後ろから不意に呼びかけて自分に果し合いを申込んだ薩州の浪人がそれだ。
「田中でなくば、あれだけのことはやれぬ、第一、証拠がある」
「いやいや、田中なら、あんなことはやらぬ。刀を捨てて逃げるような慌《あわ》てた真似《まね》をするものでない」
「というて、その刀は田中のほかに持つべき品でない」
「さあ、それが拙者にも解《げ》せぬ、田中はなんとも言わず腹を切ったことだから、どうも解らぬわい」
「申し開きをせず腹を切ったことだから、言わずと当人|罪《つみ》に落ちたものじゃ」
「そうとも言い切れぬ、何かその間《かん》に……拙者もよく知っているが、あの田中という男は人を斬ったこと幾人か知れぬ、人を斬ることは朝飯前と心得ている、近頃は仕事がなくて腕が鳴る、誰か斬る奴はないかと人斬りを請負《うけお》って歩くほどの男じゃ」
「それにしても先方に位がある、威に怖《おじ》けたかも知れぬ」
「そんなことはない、侍従や少将の位が怖《こわ》くて暗殺はできん」
「役人も、薩州方も、新兵衛の仕業《しわざ》と思うているそうじゃ」
「拙者は、やはりそう思わぬ、新兵衛ではない」
 これだけ聞いたのでは何だかサッパリわからない。人を斬ったのは田中新兵衛である、いやそうでない、斬って刀を捨てて来た、当人は黙って切腹した、斬られたのは位のある人――これだけの話の筋を辿《たど》れば、かの主水正正清《もんどのしょうまさきよ》の長刀を帯していた新兵衛が、あの刀で誰をか斬ったものだろう。とにかく、あの男は何かやりそうな男であったが、はたして何かやった。しかし切腹とはかわいそうである。竜之助は、もっと詳《つまび》らかにそのことを聞いてみたいがと思っていると、階下《した》から数多くの人の足音。
「やあ、遅《おそ》なわり申した」
「これは、諸君」
 刀の鞘《さや》、袴《はかま》の裾の音がものものしい。聞いてみると、それは雑多の声で、九州弁もあれば土佐弁もある。この地の藩の人ではない――近ごろ流行《はや》る浪人者である、と竜之助は直ぐに感づきました。

 今の次の間の話――田中新兵衛が何者を斬ったかというのはこうである。
 これより先、五月の二十一日に、京都|朔平門外《さくへいもんがい》、猿ヶ辻というところで、姉小路少将公知《あねこうじしょうしょうきんとも》という若い公卿《くげ》さんが斬られた。
 少将がその日の夕方、吉村右京、金輪勇という二人の家来をつれ、提灯持《ちょうちんもち》を先に立てて、御所を出でて猿ヶ辻のところまで来た。
 御所へ水を入れるところの堰《せき》の蔭から、物をも言わず跳《おど》り出でた三人の男がある。大業物《おおわざもの》を手にして、面《かお》も身体《からだ》も真黒で包んでいた。
「すわ!」
 吉村右京は血気盛んの壮者《わかもの》であったから、素手《すで》でこ
前へ 次へ
全29ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング