へ参りませぬ故、これは十何年も前の話で、今は何とも申されぬが、まず島田殿ほどの名人は、十年や二十年に幾人《いくたり》と現われるものでなかろう、よき師匠をとり得てお仕合せに存じまする」
 師匠のよい評判を聞くことは、兵馬にとって自分のことを聞くように嬉しい。どこへ行っても島田虎之助の剣術を賞《ほ》める言葉を聞くけれども、今日この人の口から聞くと、よけいありがたく思われる。ちょうど、最初に机弾正から島田虎之助の名を紹介された時と同じような確信をもって話しているように思われる。人の技倆を、それだけに見るほど、この人の修養もそれだけに深いものと思えば、奥床《おくゆか》しい思いがする。よい人に会ったと兵馬は謹んでその言うところを聞いていると、
「島田殿は珍らしい人じゃ、こちらから話しかければ、いくらでも聞く、聞いたばかりで自分は何も語らぬ」
 丹後守は自分で自分のことを言っているようです。丹後守としてこんなに話がはずんでゆくのは、これまた珍らしいくらいでした。
「あの時分、島田は鉄砲玉じゃという渾名《あだな》があったそうな、それは、行ったきりで戻って来ない、つまり、こちらから話をしかけるとそれを受け入れるばかりで、手答えがないのじゃ」
「ただいまも、その通りでござります。それ故に島田は奥行が知れぬと申す者もござります、剣術ばかりで、頭は空《から》じゃと申す者もございまする」
「そうでござろう。拙者の邸に足をとどめておられる頃も、夜更《よふ》けまでじっと考えていて、修行者が来ても立合いということはほとんどせぬ、強《し》いて立合いを望むと、こうして相手の面《かお》を、しばらくじっと見ておるじゃ、そうしてニコリと笑って、立合いはせんでも勝負はわかっているとこう申して、それきり。これには相手も弱った」

「しかし、めざましい立合いも一度や二度は、あったことでござりましょう」
「いや、およそ一カ月の間に、一度も左様なことはない、ただ一度、拙者と槍を合せたことがござる」
「あ、槍の御高名を承わりました。それ故、一手の御教授を下し置かれたく推参《すいさん》致しました次第でござりました」
「槍の高名――滅相《めっそう》なことじゃ」
 丹後守は忽《たちま》ちに打消してしまいましたが、兵馬はその機会をはずさずに、
「宝蔵院流の槍は、三輪大明神の社家植田丹後守殿に伝わると承わりました」
「以てのほか。当今、宝蔵院の槍は伊賀の名張に下石《おろし》と申すのがござる、これがよく流儀の統《すじ》をわきまえておられるはず、あちらへお越しの時に立ち寄って御覧《ごろう》じろ」
 丹後守は、再び槍の話はさせないよう、しないように言葉を避けるから兵馬も、このうえ押すことはできなくなって憮然《ぶぜん》としていると、
「さいぜんおっしゃった甲源一刀流のこと、ついこの間も、その流儀から出でたものらしい、これも珍らしいお人が見えた」
「甲源一刀流の?」
 兵馬は、そう聞いて少し気色《けしき》ばむ。関西においては甲源一刀流を学んだものがないことはないけれども、その流名を聞くことは甚だ稀れである。その流名を兵馬が聞けば、屹《きっ》と思い当ることがある。
「そのお人と申すのは、如何様《いかよう》の人にござりしや、少々思い当ることもあれば」
「その構えが無類じゃ、じっと竹内《しない》を青眼にとって、ただそのままの形……」
「さては――」
 兵馬は我知らず膝を進めて、
「年の頃は?」
「三十三四でもあろうか」
「顔色青白く、眼は長く切れて、白い光を帯びた人ではありませぬか」
「その通り」
 丹後守の無造作《むぞうさ》に頷《うなず》く時、兵馬の眼は燃ゆる。

         十六

「ああ、惜しいことをした、貴殿のおいでが三日早ければ……」
 丹後守は、兵馬から机竜之助の身の上と、兄が遺恨《いこん》のあらましを聞いて、兵馬の来ることの遅いのをくやんだが、
「どうも、あの宇陀《うだ》の山を南に吉野山中に迷い込みはせぬかと思われる。ただいま人をかけて行方《ゆくえ》を捜索中であるが、もしあの山中へ迷い込んだことなら、容易に見つからぬ」
 兵馬は、ひとたびは力を得、ひとたびは失望し、さてこの上は自分も吉野郡の山中へ踏み込んでどこまでも行方を探すばかりだと覚悟を決めました。
 こう覚悟をきめてみると、ここに悠々としている必要はない、例の宝蔵院の槍のことも、この場合、強《た》っての所望《しょもう》でもないのですから。
「よき手がかりを得て、かたじけのう存じまする。早速に拙者は仇《かたき》のあとを追うて、吉野の方へ参ることに致しまする」
「それもよろしゅうござる、お留めは致さぬが、しかし兵馬どの、拙者の見受け申すところでは、その机竜之助とやらは稀代《きだい》の遣《つか》い手《て》である、ほとんど今の世に幾人
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