えた惣太とは違います。惣太は飲んだくれであったけれど、これほどの悪い度胸はない。
これは針《はり》ヶ別所《べっしょ》というところに住んでいて、表面は猟師、内実は追剥《おいはぎ》を働いていた「鍛冶倉《かじくら》」という綽名《あだな》の悪党であります。
金蔵が、この鍛冶倉の乾分《こぶん》となったのにも相当の筋道《すじみち》があるけれどそれは省く。
「お豊、いいあんばいに、お天気じゃ、今夜は内牧《うちまき》泊《どま》りとして、それまでに夕立でも出なければ何よりじゃ。おお、吉田様が見えない、どうなさった」
薬屋源太郎は、あとをふり返って囁《ささや》くと、お豊は、
「どうなさいましたでしょう」
「馬の草鞋《わらじ》でも解けたのであろう。馬子《まご》さん、少し静かに歩かせておくれ」
馬を静かに歩かせて、
「あのお武家は、えらく武芸がお出来なさるとお陣屋の先生が賞《ほ》めていました」
「そうでございます、お陣屋へ修行者が参りましても、手に立つ者はなかったと、皆のお方も申しておりました」
「けれども、口を利きなさるのが、なんだかサッパリし過ぎて、そのくせ、いつでも沈んで、なんだか気味の悪いような、逞《たくま》しいような、妙に気の置けるお方じゃ」
「それも、お家にお子供さんがいらっしゃるし、奥様もおなくなりなすったそうですから、それやこれやの御心配からでござりましょう」
「そんなことかも知れぬ。しかしまあ道中も、あのお方がおいでなさるので安心じゃ。時にあの馬鹿者の金蔵……ああいう執拗《しつこ》い奴もないものだが、あんなのがゆくゆくは胡麻《ごま》の蠅《はい》、追剥、盗人、そんなことに落ちるのだ、心柄《こころがら》とはいえ、気の毒なものだ」
お豊はなんとも言わないで、また後ろをふり返ったが、竜之助の姿はまだ見えない。
「叱《し》ッ――まだまだ」
林の茂みに覘《ねら》いをつけていた金蔵は、このとき赫《かっ》としてあわや火蓋《ひぶた》を切ろうとしたのを、あわてて、傍に見ていた鍛冶倉《かじくら》が押えたのは、時機まだ早しと見たのであろう。
この日の朝、三輪の里なる植田丹後守は、しきりに胸《むな》さわぎがします。
丹後守という人は妙な人で、時々前以て物を言い当てることがあります。
「お前の家へ昨夜、子供が産まれはせぬか」
ある時、或る家の前へ立ってこう言うた時、その家の主人が眼を円くして、
「大先生、まあ、どうして御存じでございます、まだどこへも沙汰をしませんに」
「そうか、それは男の子であろうな」
「左様でございます、どうして、それがおわかりになりました」
「そんな夢を見た、なんにせよ、めでたいことだ」
といって立去ってしまったことがある。
また或る時、借金のために財産をなくしかけて、首を縊《くく》ろうか、身を投げようかと思案しながら道を歩いている町の人に出遭《でっくわ》したことがある。
「杢右衛門《もくえもん》、お前は何を心配している」
「へえ……」
「お前の後ろには死神《しにがみ》がついているぞ」
「ええ?」
男は慄《ふる》え上がって後ろをふり向くと、丹後守は笑いながら、
「もう少し前へ出ると金神《こんじん》が待っている」
丹後守はこの男のために借金と死神を払ってやったことがあります。こんなことは丹後守にあっては珍らしいことではなく、雨が降ること、風の吹くこと、火事のあることなども前以て、よく言い当てたものです。
竜之助一行を送り出しておいて、しきりに胸さわぎがしたので、読みかけた本をふせて、丹後守は座右の筮竹《ぜいちく》と算木《さんぎ》とを取って易《えき》を立ててみました。そうして、
「内山殿、内山殿」
二声ばかり呼んでみました。
「はい」
いつぞや、竜之助を玄関に迎えたところの青年でありました。
「あのな、甚だ御苦労だが、貴所と、それからモ一人、高江氏を煩《わずら》わしたらばと思うが、ちょと近い所まで行ってもらいたいのじゃ」
「承知致しました。いずれへ」
「初瀬の町から西峠の方へ急いでもらいたい、馬で飛ばしてみてもらいたいのだが」
「心得ました。して御用向は?」
「どうも、さいぜん送り出した、あの吉田氏と薬屋の者、あれがどうも気がかりじゃ、たしかまだ西峠へかかるまい、せめて、あの原を越えるまで、御両所でお送りが願いたい」
「心得ました」
「いや、まだ、お待ち下さい」
丹後守は、急いで立とうとする青年を再び呼びとめて、
「少々お待ちなさい、貴殿は鉄砲が打てましたな」
「はい、少しは」
「どうか、これを持参して下さい」
丹後守は戸棚の中から桐の箱を取り出して、打懸《うちか》けた紐《ひも》をとくと、手に取り上げたのは一挺の拳銃《ピストル》であります。
この時分、拳銃はあまり見たことがないのであります。しかも今、
前へ
次へ
全29ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング