っております。
 日中は暑さを厭《いと》い、今朝の暗いうちに馬を仕立てて、三輪を立った薬屋源太郎とお豊とは少し先に、竜之助は二人の馬から十間ほど離れて、これもやはり馬で、この西峠を越したのでありましたが、小野の榛原には、青すすきが多く、大きな松や樅《もみ》が並木をなして生えています。
 仰いで見ると四方に山が重なって、遠くして高きは真白な雲をかぶり、近くして嶮《けわ》しきは行手に立ちはだかって、人を襲うもののように見られます。
 峠の上には雲雀《ひばり》が舞い、木立の中では鶯《うぐいす》が、気味の悪いほど長い息で鳴いている。そして木の下萌《したもえ》は露に重く、馬の草鞋《わらじ》はびっしょりと濡れる。
 竜之助は、またも旅人《りょじん》の心になりました。
 三輪で暮らした一月半は、再びは得らるまじき平和なものでありました。竜之助の生涯に、人の情けをしみじみと感じたのは、おそらく前にも後にもこの時ばかりでありましょう。
 大和の国には神《かん》ながらの空気が漂うている、天に向うて立つ山には建国の気象があり、地を潤《うる》おして流れる川には泰平の響きがある。
 竜之助は、西峠の上に立った時は遥かに三輪の里を顧みて、
「さらばよ」
と声を呑んだのでありましたが、今、さきに行くお豊の馬上の姿を見ると、そこに縹渺《ひょうびょう》として、また人の香《にお》いのときめくを感ずるのであります。

 ちょうど西峠と榛原の間まで来た時に、向うからただ一人、旅の者がこちらを向いて足早に歩いて来ます。
 細い道でしたから、並木の方へ寄って、源太郎とお豊の馬をも避けたように、竜之助の馬をも避けて、通りすがりに旅の人は、ふと笠の中から竜之助を見て、棒のように立ってしまいました。

 この時、林の茂みと小土手の間に二人の猟師が身を隠して、何か獲物《えもの》を覘《ねら》っているような様子を誰も気がつきませんでした。この一人は誰とも知れず、ギョッとするほど人相の悪い男で、ほかの一人は金蔵であります。
 人相の悪い方は、
「金蔵、慄《ふる》えてるな」
「ナニ、大丈夫だ」
 大丈夫だと言ってみたが争われぬ、金蔵は五体がブルブル慄えて物を言うと歯の根が合いません。
「度胸《どきょう》定《さだ》めに、それ、あっちから旅人が来る、あいつをひとつやっつけてみろ」
 人相の悪いのが、ふと木の葉の繁みから街道の遠くを見ると、ただ一人、この小野の榛原《はいばら》を東から歩み来る旅人があります。
「ドレドレ」
「それ、覘《ねら》いをつけてみろ」
「うむ」
 金蔵は鉄砲を取り直して構えてみたが、支え切れないと見えて、小土手へ銃身を置いて、目当《めあて》と巣口《すぐち》を真直ぐに、向うから来る旅人に向けてみましたが、
「やあ、速い、速い、恐ろしく足の早い奴だよ」
 なるほど、向うから来る旅人の足の速力は驚くべきものです。土手へ鉄砲を置いた時に弥次郎兵衛ほどに小さかった姿が、巣口を向けた時は五月人形ほどになり、速い、速いと驚いた時は、もう眼の前へ人間並みの姿で現われています。
「まるで、飛んで来るようだ、こりゃ天狗《てんぐ》だ、魔物だ」
 さすがの二人が呆気《あっけ》にとられているうちに、眼の前を過ぎ去って、並木の彼方《かなた》へ見えなくなってしまいます。
「驚いたなあ! 足の早い奴もあればあるものだ」
 人相の悪いのが苦笑《にがわら》いをする。
 しばらく無言で、二人は旅人が過ぎ去った方の路を、やはり木の葉の繁みから一心に見つめていたが、
「それ、来たぞ!」
「やあ、やあ」
 金蔵は声と共に胴震《どうぶる》いをはじめました。人相の悪いのは平気なもので、
「いいかい、金蔵、よく度胸を落着けろ、それ、前の奴が親爺《おやじ》で、後のが女だ、オヤオヤ、武士《さむらい》の見えぬのはおかしいぞ、とにかく、前の親爺をドンと一つ、いいか、あとはおれが引受ける」
 申すまでもなく、二人が覘《ねら》う当《とう》の的先《まとさき》を通りかかる前のは薬屋源太郎で、後のはお豊であります。
 机竜之助は、どうしたか、まだ姿を見せない。そうだ、さっき通りかかった、あの足の早い旅人と行違いになって、何か間違いでも出来はしないか。

 まるきり執念《しゅうねん》のない者と、どこまでも執念の深い者は、どちらも始末に困ります。
 金蔵の執念は、とうとうここまで来てしまった。慄えながら鉄砲の覘いをつけているところを見ればおかしくもあるが、面《かお》の色を真蒼《まっさお》にして命がけの念力を現わしているところを見れば、すさまじくもあります。
「モット落着いて……馬の腹を覘え、馬の腹と人の太股《ふともも》を打ち貫《ぬ》く気組みで……まだまだ、ズット近くへ来た時でいい」
 傍で力をつけている人相の悪い猟師は、最初に金蔵に鉄砲を教
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