ってしまいます。
 この附近では丹後守に会っては、「左様でございます」というか、「左様ではございませぬ」というか、二つの返事のほかは、あまり物を言えないことになっています。丹後守が少しも強圧を用いるわけではないが、自然そんな具合になっていました。
 ああ、悪い人に悪い物を見つかった。
 さすがの金蔵も、慄《ふる》え上って、身を支えることもできないで、松の幹へしがみ[#「しがみ」に傍点]ついてしまいました。
 金蔵は猟師の惣太の手から、旧式の種子《たね》ヶ島《しま》を一|挺《ちょう》、手に入れて、その弾薬は滅多《めった》な家へは置けないから、ここへ隠しに来たものです。町人が鉄砲を持つことは禁制であります。これが表向きに現われる時は、打首《うちくび》か追放か、我が身はおろか、一家中にまで……こんなところへ弾薬を隠しに来るほどの考えなしでも、その罪科の容易ならぬことは弁《わきま》えているものと見えます。
 証拠物件は押収《おうしゅう》されてしまった――
「ああ、首を斬られる! 今夜にも俺は縛られて打首になるのだ!」
 金蔵は恐怖|極《きわ》まって地団太《じだんだ》を踏んでみました。
 いつぞや、あの初瀬河原《はつせがわら》で盗人が斬られて曝《さら》されたことがある。俺は面白半分に見て来てたが、斬られたあとの首から、ドクドクと血が湧き返るのを見てから当分飯がまずかった、俺も明日はあんなになるのだ――ああどうしよう、どうしよう。
 無知な者は、罪を犯《おか》す時まではそんなに大それたことと思わないでいて、犯した時に至って初めて、その罪の大きかったのに仰天《ぎょうてん》する。金蔵は、いちずに何をか怨《うら》み恨《うら》んで鉄砲を習い出したが、今が今、その企《くわだ》ての怖《おそ》ろしさに我と慄えてしまったのです。
「どうしよう、どうしよう」
 そこで一人で踊り廻っているのでしたが、こういう人間は、いいかげん怖れてしまうと、あとは自暴《やけ》になります。
「どうなるものか、お豊を隠したのは、あの丹後守だ、おれの鉄砲を知っているのも、あの丹後守だ、みんなやっつけちまえ、どのみち、おれの命はないものだ」
 金蔵は横飛びに飛んで自分の家へ馳《は》せ帰りましたが、その晩のうちに親爺《おやじ》の金を一風呂敷と、自分が秘蔵の鉄砲を一挺持って、どことも知れず逃げ出してしまいました。
 翌朝になって、金六夫婦の驚きは一方《ひとかた》でない、近所組合の人も総出で騒いだが、結局、金蔵の行方は更にわかりません。
 丹後守はかの弾薬のことについては、何も言わず。ホッと胸を撫《な》で下ろしたのは薬屋源太郎はじめ、お豊らでありましたが、あんな奴だからまた何をしでかすまいものでもない――安心したような、まだ心配が残っているような……それでも金蔵がいなくなったので、ひとまず胸を撫で下ろしました。

 金蔵がいなくなってみれば、お豊が植田の邸に預けられる必要はなくなった。
 お豊が再び薬屋へ帰った時には、暗い心に薄い光がさしていた。
 竜之助は、ものの五町とは離れぬところへお豊が帰ったその晩は、どうも寝られない淋しさを感じた。
 さて、お豊は薬屋へ帰っていくらもたたないうちに、伯父の源太郎に向って、亀山へ帰りたいからと言い出しました。
 今まで死んでも帰らぬと言い張った故郷へ、今日は我から帰りたいと言い出したことを、伯父は思いがけなく驚いたくらいでしたけれど、当人にその心の起ったことは非常な喜びで、
「それでは、わしが送って行って詫《わ》びをして上げる」
 大急ぎで旅立ちの用意をはじめました。これとほとんど時を同じゅうして机竜之助は、植田丹後守にいろいろと高恩の礼を述べて、これも関東へ発足の日取りをきめました。
 出立の前の日、薬屋源太郎が丹後守へ挨拶に出て、
「あれも、お蔭をもちまして、明日、故郷へ送り返すことに致しましたから……」
 一通りの暇乞いの話を聞いた植田丹後守が、
「わしがところにおる吉田竜太郎と申される御仁《ごじん》が、これも近いうち関東へ立つ、次第によりて同行を願うてみたら――」

         十三

 式上郡から宇陀郡へ越ゆるところを西峠という。西峠の北は赤瀬の大和富士《やまとふじ》まで蓬々《ぼうぼう》たる野原で、古歌に謡《うた》われた「小野の榛原《はいばら》」はここであります。
 西峠は一名を「墨坂」という、「墨坂」の名は古代史に著《あら》わる。「鳥立《とだち》たづぬる宇陀《うだ》の御狩場《みかりば》」というのは宇陀の松山からかけて榛原より西峠、山辺郡に至るあたりを言うたものらしい。
 古《いにし》えの「禁野《きんや》」、推古の朝《ちょう》の薬狩《くすりがり》のところ、そこを伊勢路へかかって東海道へ出る道と、長瀬越えをして伊賀へ行く路とが貫いて通
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