せず。
お豊は、こころもち膝をこちらに向けるようにして、二人は、やはり蒸し暑い空気に抑《おさ》えられてだまっていると、蚊遣火の煙は、その間に立ち迷うて見えます。
「お豊どの、そなたも遠からず伊勢へ帰られるそうな」
「どうなりますことやら」
「さてさて世間には、身の始末に困った人が多いことじゃ」
竜之助は、このとき少しく笑う。
「生きている間は故郷へは帰るまいと思います、帰られた義理ではありませぬ」
「なるほど……」
「伯父は遠からず連れて帰ると申しますけれど、わたしは帰らぬつもりでございます」
「して、永くこの地に留まるお考えか」
「いいえ」
「では、どこへ」
「あの、私はいっそ、生きているならばお江戸へ行って暮らしたいと思いまする」
「江戸へ――」
「はい、江戸には叔母に当る人もあるのでございますから、それを頼《たよ》って、あちらで暮らしてみたいと思っておりまする」
「うむ、江戸で暮らす――それもまた思いつきじゃ」
「それにつきまして、あなた様には……関東へお立ちの時に……」
お豊は、ここまで来て言い淀《よど》んだようでしたが、思い切った風情《ふぜい》で、
「突然にこんなことを申し上げてはさだめし鉄面《あつかま》しいやつとおさげすみでもござりましょうが、あなた様が関東へお下りの節……できますことならば」
「…………」
「あの、御一緒にお伴《とも》をさせていただきとう存じます」
「一緒につれて行けと申されるか」
お豊を失望させるほど冷やかに、竜之助は呑込んだともつかず、いやとも言い出さず、やがて、
「それもよかろう、強《し》いてお止めは致さぬ」
やっとこう言い出して、少し間《ま》を置き、
「が、そなたが江戸へ行くことは、伯父上は勿論《もちろん》のこと、ここの先生も、またそなたの御実家もみな不同意でござろうな」
「それはそうでございますけれど……もし故郷へ送り返されるようなことになりますれば、生きてはおられませぬ」
「ふむ――」
竜之助は団扇《うちわ》を下に置いて腕を組んでみましたが、よく生命《いのち》を粗末にしたがる女よと言わぬばかりの態度にも見えましたが、また極めて真剣に何か考えているようにも見えます。
そうして、しばらくつぶっていた眼をパッと開いて、
「よろしい、生命がけの覚悟ならば……」
この時、表の方で人の足音がやかましい。祭りに行っていた家の連中が帰って来たものと思われる。
十一
その翌朝のこと、藍玉屋《あいだまや》の金蔵は朝飯も食わずフラリと自分の家を飛び出しました。
「金さん、金蔵さん」
長者屋敷のところで、横合いから、火縄銃《ひなわづつ》を担《かつ》いで犬をつれた猟師|体《てい》の男が名を呼びかけたのをも気がつかず通り過ぎようとすると、猟師は近寄って来て、金蔵の肩に後ろから手をかけ、
「どうした、金蔵さん」
「やあ、惣太《そうた》さん」
「何だい、えらく悄気《しょげ》てるな」
「ああ、少し病気だよ」
「大事にしなくちゃいけねえよ」
「だから保養に、ここらを歩いているのだ、どうも頭の具合が面白くないからね」
「それでは金蔵さん、今日は一日、俺と高円山《たかまどやま》の方へ行かねえか、山をかけ廻ると気の保養になるぜ」
「そんな元気があるくらいなら、こうしてぶらぶらしてはいないよ、ああつまらない」
「困るな。では俺が近いうち、猪《しし》の肉を切って行くから、一杯飲んで気晴らしをしよう」
「うん」
「まあ、大事にするがいい」
この猟師は惣太といって、岩坂というところに住み、兎、鹿、猿、狐などの獣を捕っては生業《なりわい》を立てている。ことに猪を追い出すのが上手《じょうず》で評判をとっている。女房もあって子供も三人ほどあるのに、酒が好きで、女房子を食うや食わずに置いては、自分は獲物の売上げで酒を飲んで帰ってくる。金蔵とは飲み友達で、金蔵はよくこの男に奢《おご》ってやったり、狐の皮なんぞを売りつけられたりしていました。今、二三間行き過ぎた惣太は、何事をか思い出したように引返して来て、
「金蔵さん、金蔵さん」
「何だえ」
「ホントに済まないがねえ」
「うん」
「二分ばかり貸してもらいてえ。高円山へ追い込んだ猪が明日の朝までには物になるんだ、そうすれば直ぐだ、直ぐ返すから」
「またかい」
「ナニ、今度はたしかだよ。どうも金蔵さん、女房が干物《ひもの》になる騒ぎだからな」
「貸して上げてもいいがね」
「そうして下さいよ、拝みまさあ。お前さんなんぞは何不自由のない一人息子だから、二分ぐらいは何でもあるまいが、こちとらの身にとると、その二分が親子五人の命《いのち》の種《たね》になるんだから」
「では、二分」
金蔵は懐ろから財布《さいふ》を取り出して二分の金をつまみ、惣太の出した大きな掌《
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