がけの姿に気を置いて、少し落着かぬように、まだ縁へは腰を下ろさないで、団扇を片手で綾《あや》なしながら、ちょっと蚊遣火の方に眼をそむけた横顔を、竜之助はちらと見て、むらむらと過ぎにし恋の古傷に痛みを覚えるのでありましたが、すぐにいつもの通り蒼白《あおじろ》い色を行燈《あんどん》の光にそむけます。
「あなた様も、お留守居でございましたか。先日はどうも……」
「あれから、なんとなく、まだ話し残しがあるような。ほかに御用向がなければ……暫《しば》しそれへおかけなさい」
「はい、有難う存じます。こちら様へ上りましてから、まだ御挨拶も申し上げませぬ、済みませぬと思いましても、つい人目がありますので……」
お豊は、竜之助に向って何か言ってみたいようでもあるし、言い淀《よど》んでいるようでもあります。
「実は拙者も……」
竜之助は取ってつけたように、こう言って、またお豊の横顔を見ながらしばらく黙っていましたが、
「拙者には兄弟はないが、どうやら死んだ家内にでも会うような……そなた様を見てから、そんな気分も致すのじゃ――これはあまり無躾《ぶしつけ》ながら、不思議なめぐり会いが、ただごとでないように思う」
「何かの御縁でございましょう。あの、あなた様にはそのうち関東の方へお立ちと聞きましたが、それはほんとうでございますか」
「うむ、拙者の身の上も……いろいろに変るので。どうやらこのごろでは、この土地に居つきたい心地《ここち》もする、当家の御主人があまりに徳人《とくじん》で、父に会うたように慕わしくも思われるから。しかし、そのうち立たねばなりませぬ」
「さだめし、お国では奥様やお子供様がお待ち兼ねでございましょう」
「いや、拙者に女房はない、もとはあったが今はない、子供は一人ある――父親も一人」
カラカラと冴《さ》えた神楽太鼓《かぐらだいこ》の音が、この時、竜之助の腸《はらわた》に沁《し》みて、団扇《うちわ》を取り上げた手がブルブルとしびれるように感じます。
どうかすると、世間には竜之助のような男を死ぬほど好く女があります――好かれる方も気がつかず、好く方もどこがよいかわからないうちに、ふいと離れられないものになってしまう。
「女房はない、もとはあったが今はない、子供は一人ある――父親も一人」
と言って俯向《うつむ》いた竜之助の姿を、お豊はなんともいえぬほど物哀れに感じたのであります。さてはこの人も自分と同じく、つれなき世上の波に揉《も》まれ行く身であるよ。
「それはまあ、おかわいそうに。そのお子さんはさぞ会いたくていらっしゃるでしょうに」
「左様、年のゆかない子供の身の上というものは、どこにいても思いやられるでな」
「左様でございますとも。せめてお母さんでもおありなさることならば、いくらか御心配も薄うございましょうが、お一人だけでは……」
「ナニ、親はなくとも子は育つというから、まあ深くは心配せぬけれども、道を歩いても、その年ぐらいの子供を見かけると、ついどうも思い出される、ハハ」
竜之助は淋しく笑う。
「ほんとに御心配でございましょう。そのお子さんはおいくつ……男のお子さんでございますか」
「数え年で四つ、左様、男の子じゃ」
「お母さんもさだめて、草葉《くさば》の蔭とやらで、お心残りでございましょう。御病気でおなくなりになったのでございますか」
「病気ではない、自分の我儘《わがまま》から死んだのじゃ」
「我儘から……」
お豊は竜之助の荒切《あらぎ》りにして投げ出すような返答で、取りつき場のないように、言いかけた言葉を噤《つぐ》んでいると、
「いや、そんな愚痴《ぐち》は聞いても話しても由《よし》ないことじゃ」
竜之助は、団扇をとってその墨絵をじっと見つめている。
曾《かつ》て、島原の角屋《すみや》で、お松が竜之助の傍に引きつけられているうちに、その身辺からものすごい雲がむらむらと湧き立つように見えて、ゾクゾクと居ても立ってもいられないほど怖《こわ》くなったことがあります。今、幽霊も遊びに出ようとする夏の夕べを背景に、蒼白い沈んだ面の竜之助を、お豊がこちらから見る時に、この人の身のまわりには、やはり何かついて廻っているものがある。
大気がにわかに蒸してきた。さっきから飲んでいた三輪のうま酒の酔いがこの時に発したのか、竜之助は、ふいと面を上げると、蒼白い面の眼のふちだけに、ホンノリと桜が浮いている。
「お豊どの、そなたは酒を上らぬか、三輪の酒はよい酒じゃ」
「いいえ、わたしはいけませぬが、お酌《しゃく》ならば……」
お豊も自ら怪しむほどに言葉が砕けてきた。
蒸してきた空気のために、太鼓の音も泥をかき廻すようで、竜之助もお豊も何かの力で強く押されているようです。
そうは言ったけれど、竜之助は再び酒杯《さかずき》を手に取ろうとは
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