納めるつもりだ、暫らくの辛抱だよ」
伯父はひとりで力を入れて嬉しがっているようでしたが、
「その、お前を暫らく預けておこうとわしが考え当てたのは、なんの、手もないこと、ついこの先のお陣屋じゃ。植田丹後守様とて受領《ずりょう》まである歴々の御社家、あの御主人はなかなか豪《えら》いお方で、奥様も親切なお方、あのお邸へお願い申しておけば大盤石《だいばんじゃく》。それでわしは今、御陣屋へお願いに上ったところ、御先生も奥様も早速《さっそく》御承知じゃ。御陣屋の後立《うしろだ》て、丹後守様のお眼の光るところには、この界隈《かいわい》で草木も靡《なび》く、あんな馬鹿息子の指さしもなることではない」
お豊はこれを聞いて、かの二本杉であった机竜之助が、同じくその植田丹後守の邸にいるということを思い出して、その面影《おもかげ》がここに浮んで来ました。
十
今宵《こよい》は三輪大明神に「一夜酒《ひとよざけ》の祭」というのがあります。
丹後守の家では二三の人が残ったきりで、あとは皆、昼からの引続いての神楽《かぐら》と、今年は蛍《ほたる》を集めて来て階段の下から放つという催しを見に行ってしまっています。
その残ったなかの男の一人は、机竜之助で、もう一人は久助という年古く仕えた下男であります。
竜之助は縁端《えんばな》へ出て、久助がさきほど焚《た》きつけてくれた蚊遣火《かやりび》の煙を見ながら、これも先刻、久助が持って来てくれた三輪の酒を、チビリチビリと飲んでいました。
いつでも寝られるようにと、久助は蚊帳の一端を吊《つ》りっぱなしにしておいて、蒲団《ふとん》なども出しておきました。籠行燈《かごあんどん》の光がぼんやりとしているところで、竜之助は盃をあげながら、
「なるほど、この酒は飲める、処柄《ところがら》だけに味が上品である」
と独言《ひとりごと》を言います。
三輪の酒は人皇《にんのう》以前からの名物である。ここにまた古典学者の言うところを聞くと、
「ミワ」は、もと酒を盛る器《うつわ》の名であった、太古、三輪の神霊はことに酒を好んで、その醸造の秘術をこの土地の人に授けたという。また一説には「ミワ」は「水曲《みわ》」である、初瀬川の水がここで迂廻《うかい》するところから、この山にミワの山と名をつけた、それが社の名となり、社を祭る酒の器の名となった、土地の名になったのはその後であると――かの万葉に謡《うた》われし、
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うま酒を三輪の祝《はふり》のいはふ杉
てふりし罪か君にあひがたき
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とある――また古事記の祭神の子が活玉依姫《いくたまよりひめ》に通《かよ》ったとある――甘美にして古雅な味が古くから湛《たた》えられているということは、三輪のうま酒の誇りであった。
竜之助は、そんな考えで飲んでいるのではない、舌ざわりの、とろりとして、含んでいるうちに珠玉《たま》の溶けてゆくような気持を喜んで、一杯、一杯と傾けている――蚊遣火《かやりび》の烟《けむり》が前栽《せんざい》から横に靡《なび》き、縦に上るのを、じっと見ている様子は、なんのことはない、蚊遣火を肴《さかな》にしているようなものです。
「誰か湯に入っているな、お早どのかな」
湯殿で湯の音がする。廊下をずっと突き当ると、鍵《かぎ》の手《て》に廻ったところに物置と背中合せに湯殿がある、それは女たちの入る湯殿である。いつも、こんな時には留守居役の老女中、お早婆さんが、居睡《いねむ》り半分、仕舞湯《しまいゆ》に浸《つか》っているはずである。
「ウム、太鼓の音がするな、里神楽《さとかぐら》の太鼓――子供の時には、あの音にどのくらい心を躍《おど》らせたことであろう」
笛と太鼓の音は、すぐ前の竹藪《たけやぶ》にひびいて遠音《とおね》ながら手にとるようです。竜之助は、それから沈吟して、盃をふくんでいると、庭先を向うの椿《つばき》の大樹の下から、白地の浴衣《ゆかた》がけで、ちらと姿を見せたものがあります。
「婆さんか」
竜之助は見咎《みとが》めて呼んでみますと、
「いいえ、わたくしでございます」
「ああ、あの、お豊どのか」
「はい」
お豊は、この家に預けられています。竜之助はそのことを知っていた。お互いに同じ家に来《きた》り合せたことをその時から知ってはいたが、今日で五日ほど、人の手前を憚《はばか》ってまだ親しくは面《かお》も合せず口も利かずにいた。
「そなた様もお留守居でござったか、まあ、ここへお掛けなされ」
竜之助は、自分の持っていた団扇《うちわ》で縁の一端を押えます。
「有難う存じます、こんな失礼な容姿《なり》で……」
いま湯の音を立てていたのは、この女であった。湯あがりに、ちょっと身じまいをして、寛《くつろ》いだ浴衣
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