く相手を見据えた時のような落書きがなく、不安と、そうして散漫とがようやく行き渡る。
「うむ――」
額を押えて力なく折れた。
「どうかなさいましたか」
「頭が痛い」
「それは困りました」
「眼が廻る」
「お薬を差上げましょう」
お松はふいと立った。
「いや、それには及ばん」
「それでは、お冷水《ひや》を」
「何も要《い》らん」
竜之助は額を押えて薬も水も謝絶《ことわ》る。しかしながらよほどの苦しみには、うつむいた面《かお》が下るばかりです。
お松は、この時ふいと気がついた、逃げるならこの間《ま》である――
「待て!」
うつむいた面がバネのように上ると、竜之助は刀を取っていた。
「逃げるか!」
「いいえ」
「そこへ坐れ」
その眼で睨められた凄《すご》さ。この人の身の廻りには、魔物のように物を引く力がある。夢で怖《こわ》いものに追われたように、逃げようとすれば足がすくむ。
「うーむ」
竜之助は、また額を押えて唸《うな》る、そのうなり声を聞くと地獄の底へ引き込まれそうです。
「ああ――」
竜之助は、そろそろと面を上げて、
「これこれ女」
思いのほか静かな声で、
「妙な気持にな
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