った、お前に少し聞いてもらいたいことがあるがな」
「何でございましょう」
「いや、拙者も国を出てから長いことになるが、思い出せば子供が一人ある」
 なんという話頭《はなし》の変り方であろう。しかしその言葉には、なんとも言われぬ痛々しさがあります。
「お子様がおありなさる……」
「郁太郎と名をつけて男の児じゃ」
「はい」
「もし縁があって、お前がその男の児にめぐり会うような折もあらば、剣術をやるなと父が遺言《ゆいごん》した、こう申し伝えてもらいたい」
「そのお子様に、あなた様が御遺言……」
「そうだ、生前の遺言じゃ。拙者の家は代々剣術の家であったが、もう剣術をやめろと言ってもらいたいのじゃ」
「それは、どういうわけでござんしょう」
「別にわけはない」
 この不思議な人の言うこともすることも、いちいち、この世の人ではないようです。
「承知致しました。そのお子様は、お母さんと御一緒に今お国においでなさるのでございますか」
「いや、そうでない、母という奴、拙者には女房じゃ、それはいない」
「お母さんも、おなくなりなさいましたので?」
「うむ――俺が殺した」
「まあ、あなた様が手にかけて!」

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