た九重の亡魂《なきたま》でなければ、竜之助の身の中から湧いて出る悪気《あっき》。
 この「御簾の間」は、時としてどこからともなく風が吹いて来る。
 その風がしゅうしゅうとして梁《はり》を渡り、或るところまで来てハタと止まると、いかにも悲しい歔欷《すすりなき》の声が続く。
 誰も、そんなものを聞いたものもないくせに、そんな噂をする者はある、ホントにそれを聞いた人は、命を取られるのだという。お松は今それを聞いた――と自分ではそう信じてしまったらしいのです。
 竜之助は手が戦《おのの》いて猪口を取落した。
 その取落した猪口を拾い取ると、何と思ったか、力を極めて、それを室の巽《たつみ》の柱の方向をめがけて発止《はっし》と投げつける。猪口はガッチと砕けて夜の嵐に鳴滝《なるたき》のしぶきが散るようです。
 と見れば、竜之助の眼の色が変っている。
 竜之助の眼の色は、真珠を水に沈めたような色です。水が澄む時は冴《さ》える、水が濁る時は曇る。冴える時も曇る時も共に沈んだ光があった。今はその光が浮いて来た。
 猪口の砕けて飛んだ室の中を、ここと目当のなく見廻した時の眼は、かの音無しの構えにとって意地悪
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