来た」
「女の姿が――」
「女の姿が?」
 竜之助は、左の手を差置いた刀にかけて、室の中を見廻す。切れの長い目は颯《さっ》と冴え返る。
 お松は知らず知らず竜之助の膝に身を寄せていた。
「ハハハ」
 竜之助の笑って打消す声は、かえってものすさまじさを加える。
「なにをばかげた」
 お松は、竜之助の傍を離れ得ない。竜之助の傍を離れられないくらいに怖ろしいものを見た。
「あの、お武家様、昔からこの部屋には幽霊が出るように申し伝えてありまする」
「この部屋に幽霊が?」
 改めて竜之助がこの部屋を見廻すと、「御簾《みす》の間《ま》」であった。
「昔、九重《ここのえ》という全盛の太夫さんが、ここで自害をなされました」
「ふーむ」
「その太夫さんは、やんごとなきお方の落《おと》し胤《だね》、何の仔細《しさい》があってか、わたしはよく存じませねど、お身なりを平素《ふだん》よりはいっそう華美《はで》やかにお作りなされ、香を焚《た》いて歌をお書きになって、懐剣でここを……」
 お松は、自分で自分の咽喉《のど》を指さして戦慄する。
「ふーむ、そんな由緒《いわれ》のある部屋か」
「でございますから、怖ろしゅ
前へ 次へ
全121ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング