で入ったのだから、菱屋の一件には何の関係もない、そうして兵馬の剣道には怖れをなしている。行きがかり上、井村に加勢をしようとしてみたが、むざむざ命を投げ出すはあまりに張合いのない心地がする。
「うむ……」
 煮《に》え切らない含み声で、気を折られた様子が見える。
「よし、君はそこにいて、拙者と井村との勝負を見届けておいてくれ給え」
 こう言われて、溝部はいよいよ行詰まったらしく、中立とも言わず、加勢とも言わず、柄《つか》にかけた手の扱いに困った様子でしたが、
「いや、御両所、まあまあ待ち給え」
 急に変って留め役と出かけ、
「どちらにしても同志打ちはよくない、拙者に任せ給え。井村、君何か知っておるなら、宇津木君に言ってしまい給え」
「知らんというに」
 井村は、この時、そこにあった盃洗《はいせん》を取るより早く、兵馬をめがけて投げつけたのが、盃洗は床柱に当ってガッチと砕ける、水は飛んで室内に雨をふらす。そうしておいて井村は、刀を抜きかけて来るかと思うと一散《いっさん》に逃げ出してしまいました。

 兵馬は、井村を取逃がし、組みついた溝部を抛《ほう》り出して、ひとり角屋を出て来た。その道々
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