ら今以て帰らんと言う、不思議ではないか」
「それがどうしたというのだ、それをなんで拙者に問いただす廉《かど》がある」
井村は擬勢《ぎせい》を張って、兵馬の問いをいちいち刎《は》ね返そうとしているらしいが、不安の念は言葉づかいの乱れゆくのでわかるのです。
「なら、君は、そのことについて一切知らんのか」
「無論じゃ」
「そう君が強情《ごうじょう》を張るならば、こっちにも覚悟があるぞ」
「覚悟とは何だ」
「君のその手の傷に物を言わせる」
「ナニ!」
「その傷を発《あば》いたら口があくはずじゃ、それがいやならば、ただ一言《ひとこと》、太兵衛女房の在所《ありか》を知らせてくれ、それだけでよい」
「知らんというに」
「あくまで強情を張るか」
「腕にかけてもだ」
「しからば、拙者は貴様を斬るぞ」
兵馬は刀を引き寄せる、井村、溝部は抜こうとする。
「溝部君」
兵馬は、溝部の方を見て、
「君は新参だから、このことには関係がない、そこに黙って見ているがよい。しかし、強《し》いて加勢をするつもりならば、拙者は、真先に君を斬るがどうだ」
兵馬は凜《りん》として溝部に宣告を下す。溝部はその後、井村の紹介
前へ
次へ
全121ページ中76ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング