い》。志士を気取って勤王を看板に、悪事を働く厄介者《やっかいもの》。
 暗殺が流行《はや》る、おたがいにめぼしい奴を切り倒して勢力を殺《そ》ぐ、京都の町には生首《なまくび》がごろごろ転がっている。新たに守護職を承った会津中将の苦心というものは一通りでない。病躯《びょうく》を起して、この内憂外患の時節に、一方には倒れかけた幕府の威信を保ち、一方には諸国の頑強な溢《あぶ》れ者《もの》を処分してゆく、悪《にく》まれ役《やく》は会津が一身に引受けたのであります。
 会津侯の手に属して、これら勤王の志士、多くは西国諸藩の武士に当るべく、かの新徴組が江戸を発したのが文久三年二月八日でありました。
 徳川は、全く下り坂で、旗本《はたもと》も腰が抜けてしまった、関東の武士も今は怖るるところはない、ただ新徴組の一手と――それに東北の質樸《しつぼく》な国侍《くにざむらい》に歯ごたえがある。
 その新徴組の中で、最も怖れらるる近藤勇、土方歳三らは、もと徳川の譜代《ふだい》でもなんでもない。六十余州の兵に当ると昔から謳《うた》われた東国純粋の風土の鍛錬を生れながらに受けたのみで、持って生れた剛胆の気象と、学び
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