蔵の前まで来ました。地蔵へ心ばかりの賽銭《さいせん》を投げ、引返して表へ出ると例の南部屋敷の前。
「誰の邸だろう、大名にすればたしかに十万石以上」
壬生の村は、もう暗くなる。機《はた》を織る筬《おさ》の音が、この乱世に太平の響きをさせる。知らず知らず綾小路《あやこうじ》を廻って見れば、田圃の中には島原の灯《ひ》が靄《もや》を赤く焼いている。お松はあの中で何を思っているだろうと、七兵衛もそぞろ物の哀れを感ずるのであります。
七兵衛は、いま壬生の南部屋敷から程遠からぬところの、とある一ぜん飯屋で飲んでいる。
「親方、いい酒だな」
「へえへえ」
「この鰻《うなぎ》は、どこでとれるのかね」
「それは若狭鰻《わかさうなぎ》でございます」
「これも、なかなかうまいね」
「へえ、なるたけいい物を売らんと、御近所が喧《やかま》しゅうございます」
「なるほど、御近所にはだいぶ宏大なお邸があるようだ、お出入りがきついから、品もごまかしが利《き》かないのだね」
「まあ左様なわけでござりまする」
酒もよいし、鰻もよいから七兵衛も、陶々《とろとろ》とよい気持になって主人と話し込んでゆく。
「お客様はなんで
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