ほど、水を汲んで面を洗っていましたが、
「井村、昨夜は晩《おそ》かったな」
「うん、飛んだ寝坊をしちまった」
「どこへ出かけた」
「悪いところへ行った」
 二人の話し合いを、兵馬が通りがけに、ふと耳に入れて気がつくと、あの井村の様子――昨夜の駕籠を守って行った浪人者のうちの一人によく似ている。

 ここに一つの事件がある、それは新徴組の隊長芹沢鴨が、京都のある富家の女房を奪い来《きた》って己《おの》が妾《めかけ》同様にしてしまったことです。芹沢はじめその手に属するものの横暴は今に始まったのではないが、今度のやり方は強盗に類することであった。そうしてその話が兵馬の耳にまで入ったのは翌日のことで、兵馬はふと、前夜の夜歩きの時に見かけた浪人ども――それと芹沢が奪い来ったという町家《ちょうか》の女房との間に脈絡があるように思われてならぬ。ことにその浪人どものうちの一人は、たしかに芹沢配下の井村に違いないと思われるから、いよいよ以て奇怪に感じてその翌日、隊の門を潜《くぐ》ると、ちょうど出会頭《であいがしら》のように物置の方から出て来た井村。
「井村君」
 兵馬が呼び留めると、
「や」
 井村はギ
前へ 次へ
全121ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング