ります」
「西国は」
「巡礼の札所《ふだしょ》でございます」
「なに?」
お松も人に慣れて、このごろではあまり物に怖《お》じなくなった。そこへ、
「芹沢先生、お流れを頂戴致しとうござんす」
罷《まか》り出たのは小野川秀五郎。
「やあ、小野川か、それ」
盃を抛《ほう》ってやった。
「時に芹沢先生」
小野川は芹沢の前へ膝をすすめて、
「承われば先生には水戸の御出生。水戸と聞いて、この秀五郎もお懐《なつか》しゅうござんすわい」
「貴様も水戸生れか」
「生れは違いますが、畏《おそ》れながら烈公様に、一方ならぬ御贔屓《ごひいき》を受けておりまするからに、水戸と承われば、どうやら御主筋《おしゅすじ》のような気が致しまするで」
「なるほど、貴様は烈公の御機嫌伺いに出かけるそうな、ちっとは儲《もう》かるか」
「儲かると言わんすのは……」
小野川はムッとする。
「うむ、水戸はいったい吝《けち》なところじゃ、家中《かちゅう》を廻り歩いてもトンと祝儀《しゅうぎ》が出まい」
「芹沢先生、ちっと話が違います」
「違うとは何だ」
「世間には左様な真似《まね》をして歩くものがないとは限らん、わしは、それが嫌《きら》いじゃ」
「そうか、貴様は嫌いか」
「水戸様からいただいたお盃には、お手ずから草体《そうたい》で『水』と書いてござんすのじゃ」
「それがどうした」
「それが、秀五郎忠義の看板でござります」
「うむ、豪《えら》い奴だな、貴様は」
芹沢は皮肉な言葉で、意地悪く小野川をひやかそうとする。このたびの喧嘩の落ちは近藤に取られて、それからメッキリ芹沢の人望が落ちた。それが癪《しゃく》にさわって芹沢は、今宵《こよい》も小野川に突っかかってみる、小野川も虫がいず無言で白《しら》けていた時、
「小野川、ちとこっちへ来い」
二三枚離れていた土方歳三が小野川を呼びかける。
お松は、座敷の人混《ひとご》みに上気して、ひとり誰もいない室へ来て、ホッと息をついて、熱《ほて》る頬を押えています。と、次の間で人のささやく声、
「よいか」
「うむ」
念を押した声と、頷《うなず》いた声。
「近藤の馴染《なじみ》という女は誰だ」
誰とも知れぬ人の声。
「御雪《みゆき》、木津屋の御雪というのだ」
「ナニ、木津屋の御雪……」
お松は、聞くともなしに耳に入った名は自分の姉分になる御雪太夫のことですから、思
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