大菩薩峠
壬生と島原の巻
中里介山

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)明《あ》いておりまする

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)京都三条|下《さが》る

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]
−−

         一

 昨日も、今日も、竜之助は大津の宿屋を動かない。
 京都までは僅か三里、ゆっくりとここで疲れを休まして行くつもりか。
 今日も、日が暮れた。床の間を枕にして竜之助は横になって、そこに投げ出してあった小さな本を取り上げて見るとはなしに見てゆくうちに、隣座敷へ客が来たようです。
「どうぞ、これへ」
 女中の案内だけが聞えて、客の声は聞えないが、畳ざわりから考えると一人ではないようです。
「お風呂が明《あ》いておりまする」
「ああ左様か、それではお前、さきにお入り」
「わたしはあとでようござんす」
「御一緒にお入りなされませ」
 客は若い男女の声、それが聞いたことのあるようなので、竜之助は本を伏せる。
 隣へ来た客というのは、火縄の茶店で竜之助と別れた男女。竜之助は再び耳を傾くるまでもなくそれと悟《さと》って、そうして奇妙な心持がしました。
「参宮の帰りにしてはあまり早い」
 今宵はあまり客も混雑せず、大寺《おおでら》にでも泊ったような気持。静かにしていると、襖《ふすま》を洩れて聞ゆる男女の小声が、竜之助の耳に入ります。
「明日は京都へ着きますなあ」
「京都へ着いたとて……」
 男は歎息の声。
「わたしは、早うお雪さんに会いたい」
 これは、お浜に似た女の声。
「妹に会うたからとて、どうなるものではない……ああ、わしはいっそここで死にたい」
「ほんとに、死んでしもうた方が……」
 ここで、また話が途切《とぎ》れます。
 竜之助思うよう、やっぱり、これは無分別《むふんべつ》な若い者共じゃ。
「わたしじゃとて、もう亀山へは帰れず」
「わしも京都へは帰れず」
「死んでしまおう、死んでしまおう」
 この声は少し甲《かん》を帯びて高かった。竜之助がこちらにあることを知らないものだから。
 男は死んでしまおうと言う、女がそれに異議を唱《とな》えないのはそれを黙認している証
次へ
全61ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング