拠で、この男女の相談は心中というところへ落ち行くのが、ありありとわかります。
「それでは、お前」
「真さん、わたしは、もう覚悟をきめました」
「済まぬ、済まぬ、お前には済みませぬ」
「いいえ」
「この世の納めの盃」
またここで話が途切れて、暫らくは啜《すす》り泣きの声。
「さあ、お前、書き遺《のこ》すことはないか」
「はい、実家《うち》へ宛て、一筆」
「落着いて、見苦しからぬようにな」
「はい」
矢立《やたて》をパチンとあけて、紙をスラスラと展《ひろ》げる、その音まで鮮《あざ》やかに響いて来るのです。竜之助は男女の挙動《ようす》を手にとるように洩れ聞いて、どういうものか、これを哀れむ気が起らなかった。
過ぐる時、少しばかりの危難に立合ってやったのにさえ、自分に対しては再生の恩のように礼を述べた女が、ここでは、この男のために喜んで死のうという。それほどに粗末な命であったのか。死を許す深い仲を、傍《そば》で見て嫉《そね》むのではない、死の運命に落ち行く男女の粗末な命を嘲《あざけ》るのであろう。助けらるべき人を見殺しにする、そこに一種の痛快な感じを以て、竜之助は人を殺したあとで見する冷笑を浮べて寝ころんでいるのです。
「死ね、死ね、死にたい奴は勝手に死ぬがいい」
心の中では、こんなに叫んでいる。それでもなんだか、後からついて来るものがあるようです。
二
その晩は無事に寝て、翌朝、隣の室が騒々《そうぞう》しいので、竜之助は朝寝の夢を破られました。ああ、昨夜の男女の客は――惜しい宝を石に落して砕いたような気持がしないでもない。途切れ途切れの話と、すすり泣きの声を耳にしながら、ウトウトと寝入ってしまって、その後のことは知らない。隣の室では人が入ったり出たり、廊下を駈けたり、階段を蹴《けっ》たり、私語《ささや》いたり叱《しか》ったりする。思い合わすれば、たしかに変事があったに相違ない。
竜之助は別にそれを確《たし》かめてもみず、やがて朝飯の膳に向います。
「昨晩から、さだめてお喧《やかま》しゅうござんしたろう」
「何だ」
「まあ、お隣の騒ぎを御存じなされませぬか」
「知らぬ」
給仕に出たのは、丸い顔の気の好さそうな女中。あの騒ぎを、隣室にいて竜之助がほんとに知らないらしいのを不思議がり、
「宵の口に、若い御夫婦づれが、これへおいでになりました」
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