で入ったのだから、菱屋の一件には何の関係もない、そうして兵馬の剣道には怖れをなしている。行きがかり上、井村に加勢をしようとしてみたが、むざむざ命を投げ出すはあまりに張合いのない心地がする。
「うむ……」
煮《に》え切らない含み声で、気を折られた様子が見える。
「よし、君はそこにいて、拙者と井村との勝負を見届けておいてくれ給え」
こう言われて、溝部はいよいよ行詰まったらしく、中立とも言わず、加勢とも言わず、柄《つか》にかけた手の扱いに困った様子でしたが、
「いや、御両所、まあまあ待ち給え」
急に変って留め役と出かけ、
「どちらにしても同志打ちはよくない、拙者に任せ給え。井村、君何か知っておるなら、宇津木君に言ってしまい給え」
「知らんというに」
井村は、この時、そこにあった盃洗《はいせん》を取るより早く、兵馬をめがけて投げつけたのが、盃洗は床柱に当ってガッチと砕ける、水は飛んで室内に雨をふらす。そうしておいて井村は、刀を抜きかけて来るかと思うと一散《いっさん》に逃げ出してしまいました。
兵馬は、井村を取逃がし、組みついた溝部を抛《ほう》り出して、ひとり角屋を出て来た。その道々思うよう、
「自分は、新撰組を出よう。もとより自分の目的は、新撰組に加盟することではなかった、ただ、兄の仇を討たんがため、近藤、土方ら先輩の力を頼《たよ》りに、ついついその組の一人とはなったが、どうも久しく足を留むべきところではないようだ」
十三
「与八ではないか」
「これは方丈様」
「このごろ、面《かお》を見せないからどうしたかと思った」
「このごろは仕事が忙《せわ》しいもんだから、つい御無沙汰をしました」
「ちと、やって来い、この間お前に運んでもらった石をコツコツやっているよ」
「お地蔵様をお彫《ほ》りなさると言ったあの石かい」
「そうだ、そうだ」
「方丈様、お前は絵もかけば字も書く、彫物《ほりもの》なんぞもなさるだね」
「ああ、何でもやるよ、畑つくりでも米搗《こめつ》きでも一人前は楽にやるよ」
「感心なものだね」
「生意気なことを言うな。それはそうと与八、遊びに来い、檀家《だんか》から貰った牡丹餅《ぼたもち》や饅頭《まんじゅう》がウンとあって本尊様と俺とではとても食いきれねえ、お前に好きなほど食わしてやる」
「本当かい」
「嘘を言うものか、米の飯も食いたけれ
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