うし》もない詩吟で、廓の風情《ふぜい》も台なし、いよいよ世は末じゃて」
 井村は柄《がら》にもない慷慨《こうがい》をして、ハハと笑い、
「さあ、これから拙者が、投節くずしというのを歌うて聞かせる――まあ、宇津木、そう固くならずに一杯飲め」
 盃を兵馬の前につきつけた時、兵馬は、その盃を受けて井村の方に向き直り、
「井村、実は君に聞きたいことがある」
「何だ、改まって」
「貴殿の手に傷がある、その傷はどこで受けた、それが聞きたい」
「ナニ、この傷?」
 盃を出す手先を、ずっと見られてしまったから、もう隠しても遅い。
「これは、ちょっとした怪我。稽古槍を受け損じた」
「それはいつわりだ」
 兵馬は、一膝つめよせる。
「いつわりとは何だ」
 井村は眼に角立てて、刀をそろそろ引き寄せる。
「稽古槍の怪我ではあるまい、真剣の創《きず》であろう!」
「なに! 真剣の創?」
「そうだ、井村、貴様は四条通りの菱屋《ひしや》という商人を知っているはずじゃ」
「菱屋? それがどうした」
 井村が刀をつかんで気色《けしき》ばむので、溝部もそれに加勢をするつもりで刀を取り上げて眼の色を変える。
 兵馬も刀を取って床柱の方へ少しさがって、
「その菱屋へ、いつぞや三人の盗賊が入ったことがある、それについて君に聞きたいのだ、そう気色ばむな、穏かに話そうではないか」
「そんなことは知らん、俺は菱屋とやらの番頭でもなければ、盗賊の目付《めつけ》でもないぞ」
「誰も、君が菱屋の番頭だとも、盗賊の目付だとも言いはせん、ただその盗賊の身許《みもと》を君に尋ねてみたまでじゃ」
「盗賊の身許を俺に?」
「そうだ、君が知らんというならば、その創に聞いてみたい、稽古槍の怪我か、真剣の創か、その創口に物を言わせてみれば、わかるはずである」
「怪《け》しからんことを言う、余の儀とは違うぞ、盗賊呼ばわりは聞き捨てならんぞ」
 井村は真赤《まっか》になって刀の柄《つか》に手をかけると、兵馬はそれを制し、
「井村、抜く気か、それはよせ、君が抜けば拙者も抜く、溝部も抜き合わせるであろう、どのみち、どちらか怪我をする、ここの家を騒がせ、客人を驚かすに過ぎない、無益なことじゃ。まあ、刀は下に置け、そうして穏かに話そう」
「黙れ黙れ、盗賊呼ばわりをされては、俺は承知しても、刀が承知せん」
 彼は溝部に眼くばせをする。兵馬は島田虎之
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