を置いてどこぞへ」
「そうだ、これから直ぐに旅に出にゃならねえ。お前をつれると、お前のために悪いから、当分このままで辛抱してくれ」
「まあ、どうしたものでしょう、おじさん何か悪いことをなすったの」
「いや、あとでわかる、こうしている間も危ないのだ。そんならお松、ずいぶん身体を大事にしてな」
「わたしはどうしたらよいでしょう」
「ナニ、心配するな。親方にも太夫さんにもよろしく……だが、わしが来たとは決して誰にも言うではないぞ、お役人のようなのが来ても黙っていなさい。あの身受けの金は、持っているが今は出せない……」
 通りで夜番の音がする。
「お松、よいか。ナニ、近いうちきっと来る」
 こう言って、七兵衛は屋根と屋根とを蝗《いなご》のように飛び越えて行ってしまいました。

         十二

 はじめて廓《くるわ》の大門を潜《くぐ》ってみた兵馬の眼には、見る物、聞く物、みな異様の感じです。井村、溝部らは、揚々と行くにひきかえて、兵馬は、一足進むごとに息がつまりそうに思う。ついには堪《こら》えられなくなって引返そうとしたが、我慢《がまん》して、そのあとをついて行くと角屋《すみや》へ入る。
「壬生じゃ、壬生から来た」
「ようお越しやす」
 仲居は、直ぐに迎えに出たが、いい顔をしなかった。
 井村、溝部は刀を提げたまま、横柄《おうへい》に座敷へ通る。揚屋へは刀禁制であるが、壬生といえば刀のまま上る。井村は、大胡坐《おおあぐら》をかいて、酒を命じ、芸子《げいこ》と太夫《たゆう》を呼びにやる。
 命を奉じて仲居は出て行ったけれども、暫く姿を見せず、実は蔭でおぞけ[#「おぞけ」に傍点]を振い、なるべくこの連中の座へは遠のいているわけです。
 井村と溝部とは、盛んに呑む。兵馬は少し離れて、二人の様子を見ながら坐っていると、よその座敷で頻《しき》りに三味や歌の声、時々、調子はずれの詩吟が交《まじ》る。
 この時、井村はわざとらしく眉をひそめて、
「喧《やかま》しい国侍《くにざむらい》ども、殺風景《さっぷうけい》な歌ばかり歌いおるわ……そもそも、島原の投節《なげぶし》、新町のまがき節、江戸の継節《つぎぶし》、これを三都の三名物という。今時《いまどき》は投節を面白く歌うて聞かせる芸子もなければ、それを聞いて欣《よろこ》ぶ客もない。あんなガサツな流行唄《はやりうた》や、突拍子《とっぴょ
前へ 次へ
全61ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング