た通りの魚を手掴《てづか》みにして来る。
永年の漁師がいろいろの道具を用い、不漁《しけ》で困っている時でも、七兵衛が行けば、きっと、びく[#「びく」に傍点]をいっぱいにして帰る。七兵衛が魚をとるのではない、魚の方から七兵衛に来るのだと舌を捲《ま》いていたものです。七兵衛自身についてその秘訣《ひけつ》を聞けば、こともなげに笑って、
「みんなの人は、魚を逃げるように追っかけ廻してるだから、捉《つか》まらねえや。俺はこうやって見てえて、魚が向うから来る鼻っぱしを掴《つか》むから逃がしっこなし」
一夜に四十里五十里を普通に歩いて、檜鉄砲《ひのきでっぽう》(檜張りの笠)を胸に当てて歩いてもそれが下へは落ちなかったということは、土地の人が誰も言う。
青梅《おうめ》の町の坂下というところに、近い頃まで「七兵衛地蔵」というのがあった、それは七兵衛が盗んで来た金を、夜な夜なそこへ埋めておいた。七兵衛が斬られて後、掘り出された。そのあとへ石のお地蔵様を立てて「七兵衛地蔵」と名づけられる。
この地蔵は、最初は、足腰《あしこし》の病によく信心が利くと伝えられた、それから勝負事をするものにも信仰された。
夜、人知れず、この地蔵様のお膝元《ひざもと》を掘って、相当の金を埋めておく、その金が三日たってもとのままであった時は、その月のうちに願い通りの大金が儲《もう》かる、なんぞと言い触らす者があった。けれども埋めた人で、三日たって元の金を見た者がない。それは附近の博徒《ばくと》がそんな流言をしておいて、埋めた金をそっ[#「そっ」に傍点]と掘り出してしまうのだとわかって、金を埋めるものはなくなった。近ごろは町並を改正したために「七兵衛地蔵」もほかへ移されたということです。
七兵衛の屋敷跡も、いま現に「七兵衛屋敷」と唱《とな》えて青梅の裏宿《うらじゅく》に桑畑になって残っているが、この「七兵衛屋敷」には、さまざまの祟《たた》りがあると言い触らされている。最初にそれを買った人は、手入れをする早々、眩暈《めまい》がするとて引込んで、その晩に頓死した。二度目に安くそれを引受けた人は、ブラブラ病にかかって、三月目ほどで死んでしまった。三度目には怖《おそ》れて近づく人もなく放《ほう》ってあったのを、剛情な男があって、なにを、それは時のめぐり合せだ、物の祟りなんぞは、箱根から東にはねえ、なんぞと言って
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